お前は存在しない

 


2025年に国生白が書いた一次創作文章の再録






 羽が無い。というのは、いったい全体どう云うことであろうか。この問いは、翻ってわれわれに投げ掛けるものでもある​───羽があるとは、いったい全体どう云うことか?




 午前十時の映画に向かうことはルタの、日々の決まったルーティンで、あって、新しい街に引越したばかりとはいえ​───この習慣をつづけるためにルタは態々、映画館のある街を、えらんだ。執着の薄いルタのこの選択は、自分は執着が薄いのだから、せめてなにかに執心している振りをしようとする、姑息で、切実な、震える心臓に急かされた選択でも、あった。​───ルタのこのルーティンは崩されることはなかった。常であれば午后まで微睡みに揺蕩っている水槽の脳を引張りあげ、気に入りの服を身に纏い、外へとつづく扉をあける。薄暈けた曇天の空、微かに降りてくる、しろい糸のような、細い、雨の線を肩に座らせ、レ・ネンジェリぺの流線型をした黒革の靴を、ゆら、ゆらと動かすようにして映画館へと、向かう。歩みがそうであるように、ルタの視線も又、ゆら、ゆらとそよいでいた。ルタの眼は大抵、上か下ばかりをみていて、要するに空と地面しかみていない。ひとも、街並みも、ルタにとっては退屈だからだ。羽を持ちながら誰ひとり飛ぶことのできない、誰にも占有されない、ながれる空をみるのは愉快で、羽を持ちながら誰もが地に足を着け歩いているのは滑稽だった。そんな人物であるから、映画を観るというのは特別な時間で、おおきなスクリーンに映しだされる映像を凝とみつめる。つまり、前をみつづけるという行為をルタがおこなうのは、往々にして映画を観ているときだけのことである。

 その日になにが上映されているかは問題ではなかった。ただ、午前十時からのスクリーンに映る、いろの薄い過去の映画を眺めることをルタは好いていた。数日前まで暮らしていた街の映画館とおなじ会社が運営する、まったく変わりのないシネマに足を踏みいれる。真紅、深い絨毯の音を喰らう感触。竜の胎内めいた暗い照明が爛々。チケットを買い、番号の振られた大部屋へとすすむ。十人居れば上々の客数はここもおなじで、客の殆どが老人であるのも又、以前の街とおなじで、あった。最後列の中央に腰をおろし、スクリーンには幕間の広告がながれている。近日に上映される映画の宣伝をながめ、過去の朧げな記憶を遡りいまから上映される映画を予想する。先週にみた広告すら定かでない記憶では、これから上映されるものなど到底わかりはしないが、その事実は大して重要ではない。詰まるところ、なにが上映されようがどうでもよいのだ。いまから、なにかが上映される、それだけでルタには充分であった。空間の照明が下され、あと数本の広告が終われば本編がはじまるだろうという時間に、それはやって来た。シネマの暗がりよりも暗く、闇そのもののような、深い、重厚な黒。本編上映前とはいえ、やや遅れてはいってきたそれにルタを含めた幾人かの観客は眼を遣り、それから、ァ、と。声を洩らした。

​​​───羽無しだ。

 それが黒いのは当然であった。誰もが持つとされる白い羽がそれにはなかった。纏う、黒のスーツは裾が波打ち、袖がパフスリーヴの、クレメンタインの特徴的なデザインを備えている。深淵、何処までも黒い髪。猫科の獣を思わせる、静かに、獰猛な金の眼と、蝶のような睫毛。短髪というには長く、肩までの髪よりは短い。頸筋を這う髪は上向きに跳ね、長い前髪が一房、眼のあいだをながれている。非現実的な服装で髪型だ、と。ルタは思った。詰まるところ。それは浮いていた。羽もないのに。

 その羽無しは遅れて入るのをやや申し訳なく思っていると示すように眉を下げ、最後列の真ん中からすこし左、つまりルタのひとつ隣に、座った。どうも、と言わんばかりに軽く頭をもたげた羽無しに、ルタは脣端を上げ挨拶をする。その微笑はけっして友好的な仕草ではなかったが、羽無しは気分を害した様子をみせない。つまらないな、と。ルタは露骨に眉を顰める。黒い羽無しは容貌、仕草、処世、どれもが綺麗で、その造られた従順さにはルタの苛立ちを募らせる。シネマの椅子はすべて羽をおさめるための窓が付いており、羽無しのためには作られていない。いったいどんな凭れ心地なのだろうと気になったが、これに尋ねることはないだろうと、ルタは適当な予感を巡らせた。



 結果として、この予感はまったくの間違いであったと言わざるを得ない。映画の上映が開始されたあとも、ルタの意識は前方のスクリーンではなく、ひとつ隣の羽無しに向けられていた。別段、人生で羽無しに出逢うのがはじめてというわけではない。ただ、彼らの大抵に共通するとされる傾向、過度な冷めたさ、というものが、隣の羽無しには見受けられず、脣許が描く柔和な孤月はしろい温もりを携えていた。そのしろいひかりは冷めたい。冷めたいのだが、ルタはそのひかりに、こいつは同類だ、という、或る種異様な予感めいたものを抱いたのである。映画の最中にそれは起きた。妻の頭の上に林檎を乗せ、林檎だけを撃ち抜こうとして夫が妻を射殺した場面で​───眼前に広がった現実に慟哭する夫をみて、それは微笑っていた。こころの、底から、全身全霊の歓喜に身を震わせていた。眼端で捉えることをやめ、思わず、ザッと体をそれに向け、吸い寄せられたようにルタはそれをみた。上でも、下でも、スクリーンでもない。その微笑いだけを、凝と見詰めて、いた。愚かで、憐れで、滑稽な男の嘆きに金の眼を蕩めかせ、陶然の脣で絶望を舐めとる。その後もそれは男が選択を誤る度に、悪徳の孔に落ちる度に、これ以上ない甘露を喰んだ快楽めいた微笑いを、みせた。スクリーンの薄暗い灯に照らされ、血色の悪い、しろい皮膚が仄かにひかっている。その皮膚、空、大地の中央に、赤い花が咲いている。絶望より嫋やかに。憎悪より高らかに。嫉妬より鮮やかに。怠惰より滑らかに。淫蕩より深く、誰もがしろい世界で、そいつの脣だけが赤い。



「なァ、このあと暇?」

 上映後、敢えて空のスクリーンへと眼を動かし、尋ねる。緊張はなかった。ただ、こいつは俺に応じるだろう、という、乳白の傲慢な確信があった。

「うん。空いてる。」

「そんなにおもしろかった?」

「……なにが?」

 白々しく首を傾けてみせる、その仕草に伴い前髪で隠されていた額がすこし、露になる。まるい額は、矢張り、血色の悪い、しろい皮膚をしていた。そうしてその、試供品めいた挙措にようやく、ルタは釣られたのは自分だと知るが、だが、既う構いやしない。構う余裕など最早ない。なぜならばそう、あの脣、あの微笑い! 道徳を嘲笑う花が咲く、ルタが抱いていたのは高揚と、予感と、こいつは同類だ、という、親しみで、あった。

「映画。随分な笑顔だったね。」

 敢えてそう言えば、下がり曲がった眉、撓む眼許、歪む、脣、綺麗な容貌をぐちゃりと歪ませ、敢えて低くされた声、月の花が咲う。

「そうすりゃお前がみると思って。」

「うん。うん……。名前、教えてよ。」

 ながれる言葉は懇願めいているが、併し既に、愛の違和感、心臓を分けあった友人に話しかけるような、そんな気さくさが、ある。あは、と。月が微笑う。

「ヴィトカ。俺の言葉で、花って意味だ。」

「そう。ヴィトカね。」

 花を名乗る不審な君は気味の悪い程にかがやいていた。しろい皮膚、あかい脣、残酷の黒の髪。こうして、午前十時の映画を終え、俺は、俺の花と、出逢った。ゆっくりとさしのべられた手のひら、脣が柔と吊りあがる、降りる、月、ひかる、咲く、花、ヴィトカはゆっくりと、微笑った。

「よろしく。俺たちはきっと、良い友だちになる。」



 ルタであってるか? 階下の喫茶店でヴィトカが投げかけた言葉は、ルタに愉快なにやにやわらいを齎した。ほんとうは。ルタの名前はルタではなかった。ただ、社会生活を営む上でのニック・ネームとして用いているだけの名前で、あったが、ヴィトカがルタ、と。呼んだとき、はじめて、ルタはルタになった。という、そんな不思議な錯覚を、抱いた。それは間違いのない勘違いであったが、併しだからなんだと言うのだろう? 幸福な黄金の黒い偽りに身を浸し、ルタは束の間の快楽に耽る。

「俺のこと知ってたんだ。最初から?」

「秘密。」

「いいね。秘密はすき。」

 言葉を交わすのはたのしかった。どうやら通う学舎がおなじで、ヴィトカは前からルタに眼をつけていたらしい。それでも、この映画館を訪れたのはヴィトカの習慣であって、ルタと逢えたのは僥倖であったと、ゆら、ゆらと乳白を揺蕩いながらヴィトカが言う。ヴィトカが話すあいだ、映画を観るようにルタはヴィトカを視ていた。向かいあった喫茶の卓、羽が無いことなど忘れ、さら、さらと揺れる黒の髪、血色の薄いしろい皮膚、蠕く赤の脣、月を落とし炯々、金の眼が照る。その奥にある、拍動する、心臓。その最奥に棲む、魂は花。ルタはただ、凝と、ヴィトカだけを、見詰めていた。



「学校では会わないでおこう。」

 しろい指が紅茶茶碗の取手をなぞる。なんでもないことを揚々と示すヴィトカの口振りに、首を傾げたのはルタである。

「なんで?」

「羽無しと一緒にいるところ、みられたら面倒だろ。」

 又、それがあたりまえのように、云う。それが不快で、気に入らなくて、すこしむきになった口調を、自分自身の冷静がおかしいとわらっている。だが、それがなんだ。くだらない冷静で失いたくないものがあるのだ。お前がそうするなら、俺はこうするよ。ルタは身を乗りだし、ヴィトカのしろい手を握る。

「いいよ。ヴィトカなら。」

 全身全霊の言葉だった。そうして、同時に、俺はこんなにんげんだったか? 又、くだらない冷静がつぶやく。出逢ったばかりの存在に自身を傾けるような、そんな蒙昧ではなかった筈だ。加えてルタという人物は、日頃、手軽な関係性を好んでおり、引越すまえの、故郷の友人などは最早名前も思いだせない。そんなルタの、冷めたい心臓が、どく、どくと鼓動している。熱く、火が着けられた心臓はとまらない。だが、ヴィトカは、ルタの花は、およそ完璧なかたちをした脣をがらりと崩す。

「俺が嫌なんだよ。俺はお前と話したいだけで、お前の友人と知りあいたいわけじゃない。」

「そう、だけどさ、」

「それより、お前とふたりで映画が観たい。」

「うん……。うん、わかった。」

 とく、とく、と鼓動、ゆるりと脈を打っている。それは心地好く、泥濘、あまい誘惑の蜜である。細められた金の眼に惑溺、呼吸を失うことでできる息がある。

「そろそろ行くよ。ありがとう。お前と話せてよかった。」

 立ち上がったヴィトカの、すらりとした、羽のない背に周囲から視線があつまる。ルタはそれを矢張り、ひどく不快に、感じた。



【羽無しにはこころがない!】



 ルタは毎週、かならず映画館を訪れる。ヴィトカがいても、いなくともだ。原子爆弾を製作した教師の映画の後、その日のヴィトカはひどく上機嫌で、関心のある話題についてぺらぺらとよく喋った。車道のすぐ横の不便な歩道を渡る。車道では自動車ではなく、分断の否定、羽無しの存在を訴えるデモの行進が群をなしてすすんでいる。デモに参加する人々の掲げたプラカードには、すべての存在を認めよ、であるとか、羽無しへの連帯を示す羽ありの言葉、それから、羽無しという言葉を廃せよ、などと書かれている。デモの中心は羽ありで、まれに羽無しが参加しているようで、あったが、これは人口比に於ける羽ありと羽無しの割合と概ね一致していた。彼らの隣を平然として歩く、ルタとヴィトカにはよく視線が刺さった。羽ありと羽無しとが隣りあって歩くさまは普段から視線を集めるが、今日はその比ではない。そうしてその視線は雄弁に語っていた​───なぜ、お前は参加しないんだ? なぜ、われわれに加わらない?

「……うるさいねえ。」

 ルタが言った。まったく、なにもかもを否定したい気分であった。

「日常だろ。俺といるってのはこういうことだよ。」

 ヴィトカが云う。言葉はひどく冷えている。行進の隣を歩きつづけ、数分が経過した頃、お前に落雷、アッと、ふいに、動揺した声が、あふれた。その声はルタのものでも、ヴィトカのものでもない。背の高い、秀麗な美貌が行列から必死に身体を突きだし、ヴィトカの肩を硬く、掴む。

「ねえ、ヴィトカ、それは、なに?」

 それであるところのルタは揶揄う仕草で肩を竦めた。いっぽうのヴィトカはひどく恐ろしい、猛禽の眼で凝と、いまか、いまかと、捕食の瞬間を待つ魔ものの様相で、ある。

「なんで羽と一緒にいるの。私にくれた言葉は嘘だった? この世界、こんな世界って、言いあったろう、言葉も、こころも、重ねあったあの時間はなに、ねえどうして?」

 蒼白の面と脣とで懸命な譫言を繰り返すそれに、ルタは思わず顔を顰める。悪趣味とは思っていたが、どうやらこうした遊びを好むらしい。悪食の魔ものは素知らぬ顔で歩みを再開するが、美貌の羽無しは懸命にヴィトカに喰らいついてゆく。

「どうして。ずっとずっとずっと、私たちはずっと一緒じゃないのか? だって言ってくれただろう?」

 私の絶対になってくれるって! 悲痛な叫びを活動する民衆の声が掻き消している。ルタがそれに向けるまなざしは矢張り、ひどく冷めたい。それから、その、冷えた頭で「言ってないだろうな」と考える。恐らくヴィトカは、なにも言わない。ただ、うつくしく微笑ってみせただけだ。併しその微笑いの雄弁、照らす、救いは蓮華、魅入られ喰われたのだろう。するり、と。夜にだけ咲くしろい女王、ずる、ぐずり、と、伸ばされた触手、ヴィトカのしろい指が、ルタの指にぐじゃりと絡みついた。そうして、心底からの喜悦を湛えた弓張月が、鮮やかに照る、照る。

「愛も救済も真理も期限付き。さようなら。気高い人生を!」

 揚々手を払い除け、ヴィトカは弾んだ足取りで歩きだす。過ぎ去った背後には蹲る長身と、それを邪魔そうに避けながら行進する人々が、あった。


「もしかしてヴィトカって、俺が思ってるより趣味悪い?」

「まさか。限りある生をたのしんでるんだ。」

「誰を踏みつけにしても?」

「誰を踏みつけにしても。」

 平然と宣いアイミティーを喫む、伏せられた睫毛の残酷な黒い羽、お前の統制を失わせるかいぶつ。なんで捨てたの、と。ルタは軽々と尋ねる、その言葉のシールを捲ると、そこには「自分はけっして捨てられないだろう」という、ひどく自然で、傲岸な自信が潜んでいる。

「互助会に参加するんだ。そうすりゃ餌が釣れる。」

「違うよ。どうやってじゃなく、なぜを聴いてる。」

「簡単だよ。棄てるために出逢った。……羽無しも、羽ありも変わらない、結局は可憐で退屈な人間でしかない。孤独を厭い、不安を恐れ、愛を思う。だからその隙間に這入りこめばいい。渇きに快楽を遣ればいい。そうやって、水を注ぎつづけて…… 魂ごと、価値観を滅茶苦茶にする。社会の範疇でおとなしく。俺は俺にゆるされた領分であそんでいるだけだよ。」

 頬を薔薇いろに染め、うっそりとヴィトカが微笑う。たのしくて、愉しくて、気持ちがよくて。堪らないのだ、と言わんばかりの表情を浮かべた捕食者は、それから紅百合の脣をルタに向けた。

「お前は別だよ。ルタ。お前には期待してるんだ。」

 



【羽無しなんて存在しない!】


 


 どうやらヴィトカの悪癖には見境がないらしい。殴られに行くから着いてきて。と、およそ正気ではない誘いに軽快に着いてきたルタは、ヴィトカが羽ありに腹や頬を殴打されるさまをテイク・アウトの珈琲を啜りながら眺めていた。彼らの落とす言葉はたいてい似通っている。ヴィトカに価値観を揺るがされた者たちの常套句。変わり映えのせぬ光景のなか、暗闇、公園の白い電灯、黒黒とした血液の赤が、てらてらと、しろく、あまやかにぬめっている。夜の寂れた公園に殴打の鈍い音が響く、響く。不思議なことに、併し得てして自然なことに、泣き喚いているのはヴィトカでは、なかった。悲痛の残響、一向に微笑みの絶えぬヴィトカに心根疲れ果てた獲物、の残骸が去って行ったあと、存在しない観客はゆっくりとヴィトカに近づく。倒れ伏した、しなやかな、長い、しろい身体、黒い布地に染み込んだ血液。それらを従え、陶酔の赤い花弁はぺらぺらとよく動いた。所詮理性に興奮する倒錯者の戯言であると聞き流していたが、どうにも口にだしていたらしい。ヴィトカは驚いたように一瞬、顔を顰め、それからすぐ、にや、にやとわらった。爛爛とひかる瞳は好奇に飢えており、ルタはつとめて軽薄に鼻を鳴らす。

「ご機嫌はどう? 理性フェチのサディスト。それともサディストの理性崇拝者?」

「さァな。試してみるか? 定期的に身体を痛めつけることで主人をわからせてるんだ。教育してる。」

「いいから。消毒するよ。」

 よく熟れた傷口に予め買っておいた消毒液を垂らす。痛みに喘ぐヴィトカはひどく嬉しげで、変なやつだな、とルタは他人事に感じる。ヴィトカの性質の悪い嗜好にはほとほと呆れているが、いっぽうでそれを心底たのしみ、共鳴もしている。寂寞の遥か向こうで魂が叫んでいる。これを手離すな。これがお前の同類だ。ルタ、と。ふいにヴィトカが名前を呼んだ。懐いた猫の鳴き声めいた声であった。くふ、くふと微笑うそれは、ルタの手を取ると、蚯蚓いろに変色しつつある自身の頬へと導く。じぐ、じぐ、痛みが伝播、心臓の鼓動が越える世界。

「羽がなくたって上手く生きていける自信はあるんだ。こんな遊びしか満たせない…… 社会に適合しない在りかただって、頭を使えば折り合いはつけられる。だけどもしも世界が逆戻りして、羽無しは処分って言われたらそれまでだ。」

「それまでって、なんだよ。」

 被害者。加害者。ヴィトカはけっして病院へ行かない。しろい清潔なところへヴィトカは行かない。摘まれるだけだから。

「諦めて、殺されるってこと。」

「…………それは、おかしいよ。」

「俺からすりゃこの世界はずっとおかしいよ。でもまァ、そう、きっと、最初から諦めてるんだ。それに、もしも羽を生やせるって言われても俺は要らないね。」

「それで殺されるとしても?」

「そう。」

「なんで。……なんでだよ。別にいいだろ、羽くらい。」

「その羽くらいで殺されてきたんだろう、羽無しは。」

 黙り込むルタの肩にぐたりと体重を預け、悪徳が咲う。

「……なァ、あの映画館。閉館するらしい。」

 だから、と。ヴィトカはわらっている。満開のよろこびを湛え、無邪気に、いっそ無垢な程に眼をかがやかせ、歪んだ、赤い脣、映画を観ている最中のように、わらっている。

「燃やしてしまおう。俺とお前で。」



【あいつは賢いね。やっぱり、羽がないからかな。】



「俺たちは友だちだ。」

 あれから幾度の夜と朝が過ぎ去り、いつであったか、そう言ったのはどちらだった? 互いにそうと発した覚えはなく、本当のところ、お互い、言ってすらいないのかもしれなかったが、併し、そんなことはどうだってよかった。きっと、似たようなことを、思った。互い、思う、すべてがおなじなどということはあり得ないが、僅か、すこし。浮かんだ考えに重なるところがあった。それぞれ勝手に、そう信じていたのだ。

 そうして偶然、互いにそれに気づいたとき、ルタと、ヴィトカとは、顔を見合わせ、手を叩き、はしたなくも足をばたつかせ、これでもかと馬鹿笑いを、した。熱くなった頬に刺さる冬の風は痛く、冷めたく、だが、けっしてわるくはなかった。だからルタと、ヴィトカとは、何を話すでもなくずっと、わらっていたのだ。

「ほしいか?」

「は、なに、なにが」

 声が上擦っている。対して花宮の声は、ひどく悠然としている。やわらかに眼を綻ばせ、春のように微笑んでいる。春、白い蛇によく似た姿。

「音は知らねえけどな。お前の欲しい言葉ならわかる。なあ原、欲しい、って、言っていいよ。」

 

 そう言って微笑う。微笑う。花が咲き匂う。最悪だ、と、原は眼を泳がせた。だって、こんなものは望んでいない。こんな関係が欲しいのではない。自分と花宮とは、決して友だちではないけれど、かと言って、欲しかったのはこんなものではない。


「なァ、違うだろ、ヴィトカ。」

「あは、なに、ルタ。」

 

 ぱちん、と、弾けて、其処には、ヴィトカが、居た。蕩然として、彼は微笑う。見覚えのある、何度もみた表情で、微笑っている。ルタの知る限り、ヴィトカは、よくわらう存在でxあった。極彩色に花が咲く、咲いた花は脣、呼吸する花弁、拍動、悍しい色彩を愛でるように、破滅的に蕩けた微笑いを降らせながら、眼前の男は不適に宣う。脣、破れ、新たな花が咲いた。

「お前を手放す気はないよ。少なくとも俺の方からは。逃げたいなら逃げればいい。去りたくなったら去ればいい。勝手にしろ。追いかけはしない。とにかく、俺からお前を手放すことはない。ねえ、ルタ。嬉しいでしょう?」

「うん。とびっきりに嬉しいね。地獄っぽくて。」



 俺は何処にもかえらない! いつもの革靴で楽園の鍵を蹴り飛ばした。だって楽園は還る場所ではない。ヴィトカにかえる楽園なんてない。だからヴィトカは、みずから楽園をつくるよりほかにない。そうして、ヴィトカの隣こそ、ルタの楽園で、あった。楽園だけがルタの居場所ではない。ルタの居場所は所属する様々な社会にある。だが、それでも。

「俺の楽園は、俺とヴィトカがいれば完成する。」



【羽無しには愛がない!】



 誰もいない音楽室はいつも黙っている。飴色の椅子と机とは木製。滅多に使用されない深碧の黒板と、教卓との間に設置されたピアノには、授業終わり、誰かがふざけて触ったあとに乱雑に被せたのであろう、深い梔子の刺繍で飾られた、海老いろのキーカバーの半分がだらりと垂れ落ちている。掃除屋の手抜きがまざまざとあらわれでた、中庭側にある、窓の、こびり付いた白のくすみは、雪のようで、汚い。

 音楽室は静かで、又、音楽室を備えた東棟四階というものが、もとより、人通りの少ない場所であった。その為か東棟の四階には、常に埃のにおいが漂い、すこしくぐもった、窮屈の香いがした。

 音楽室は、東棟四階は、ルタとヴィトカとが通う大学によく似ていた。重厚な歴史、栄誉と伝統とを重ねた名前、監獄、その空間の背後、或いは足元には、低く、苦悶に満ちた呻きや、叫びの音が分厚く染みついた、重いものが堆積している。染み着いた埃の香いは、それとよく、似ている。そうしてまた、それは、学生等が纏うよう指定された制服にも、深く、離れ難く、染み付いて、いた。

 その為にか、若くはずっと単純な理由——幾度も階段を上がるのが面倒であるとか——の所為か、兎にも角にも東棟四階とは、授業や部活動などの避け難い用向きさえ無ければ、殊更に訪れようとは思えぬような、人の寄り付かぬ場所である、というのが、学生たちのあいだに広く共通する、認識であった。

 与えられる二十分の短い休憩時間は当然、長い昼の休憩に於いても、好まれるのはたいてい教室や廊下、中庭であり、若い肉体の潑剌を求める者はグラウンドへ赴き、教室外により開放感を抱いて知人友人との語らいを得んとすれば、食堂や屋上、部室、より輝かしい、自由のような時間を求めるのならテラス、渡り廊下なぞが中心であろう。遠い上に、何処か陰鬱な、冬の気配を備えた、沈黙の音楽室、東棟の四階なぞ、脳裡を過ることは乏しい。

 然れども、稀に、そういった場を好む者があって、存在しない誰か、ルタも又、そのひとりであった。四限終了の合図を契機として、一斉に声が、騒めきを切望する音、教室を駆け出す音が、重なり、連なり、響くなか、薄水が流れるように、静かに椅子を引き、教室の扉にぶつかりそうな程おおきな身体が立ちあがる。ルタはひどく不機嫌に眉を寄せ、三白眼を厳しくぎらつかせながら、これも静かに、併し乱雑な手つきで幾つかの荷物を纏めると、ふらふらと教室を抜け出した。



——五月蝿いにも程がある。

 馬鹿だ馬鹿だ、と。声にはせずに悪態を吐き、音にはださず舌打ちをした。教室も、廊下も、窓から射し込む太陽も、青空、一切が喧しく、煩わしかった。そこら中で音と陽気とが氾濫している。嗚呼、学生諸君が切望した昼の休憩時間! そうして昼の休み時間というのは大抵、何処に行ってもかならず、誰かがわいわいと喧しく騒いでいるものである。ぴんと伸ばした背筋に深々と積み重なる苛立ち。それらをその儘に、ルタは周囲を見渡す。視線、或いはルタの存在に気づいた誰かが、講堂の端から明朗な声で名前を呼んだ。そうして、その声はきっと、ひとつでは終わらない。その事実に、酷薄とした角度で脣が歪む。それから刹那ルタは、落書きのような星空の思考に沈んだ。幾度も名を呼ばれるだろう、というのはルタの自惚れでなく、事実として、ルタはいま、自身に呼びかけている彼らの殆どすべてに、淀みなく加わることができる。ルタは常日頃から積極的にコミュニティに属し、様々な関係性を築いていたが、どうにも今日はその心持ちを維持できそうにはない。故に、又、酷薄に微笑う。こっちに来てくれと誘う声に、ひらひらと洒脱なさまで手を振り、静寂を求める脳が長い脚を東棟の階段へと運ばせる。一段、又、一段と進む度、真昼の喧騒が遠くなる。橙の苛立ちと虫襖の安堵とが、低く、積り重なって、制服、カッターシャツの白を染めてゆく心地がした。


 静かなところ。音楽室。


 誰かといたいなぁ、と思う。誰ともいたくない、とも思う。ひとりでいたいし、ひとりはいやだ。煩いのは殺したくなるほどきらいで、賑やかなのが何よりすきだ。きらいだ。ひとりでいるのは死ぬより嫌だ。だけど誰かといるとき、安心できることはすくなかった。どんなときも、誰といても。いつだって背中は冷えたままで、だから、ひとりでいる方が楽だと思う。でもやっぱり、誰かといたいなぁ、と思う。こういう考えは、口にすればきっと滅茶苦茶だとか、支離滅裂だとか、矛盾塗れなどと評されるのだろう。だけど確かなことは、自分のなかではなにひとつ矛盾していない、その事実だ。それからもうひとつ確かなのは、こういう考えが纏わりついているあいだの俺はずっと、ひどく、喧しい儘だということだ。あァ、むかつく。苛々して、口寂しくて、ガムでも食べて紛らわそうと思ったのに、今日に限って買い忘れていた。あァ、むかつく。


 静かなところ。音楽室。

 

 階段を上りきると静かに息が洩れた。それが安堵なのか、長い移動を終えた達成感なのかは判然とせず、加えて別段、ルタはそれを気にかけなかった。歩く度に、かしゃかしゃと、白いビニール袋の擦れる音が響く。廊下の窓は開け放しになっており、吹き込む風は瑠璃色に冷やされていた。白い袋の中には前日の晩に購入した、味の濃い、舌に過度な報酬を与え、そうして腹を満たすためのパンがはいっている。


「もうすぐ音楽室だ!」

 遠く、遠く、誰かの声がきこえる。


 審判、扉の前に立ち、そこではたと気づく。扉に鍵が掛かっているか否かを考慮することが、頭からすっかりと抜け落ちていたのである。常であれば講義スケジュールを確認し、開いているかを確認してから訪れるのだが、募る苛立ちがルタから平常を失わせていた。併しいっぽうで、ルタには妙な確信が、あった。それは無垢な期待に動かされたものではなく、ただ、ごく純粋な傲慢で構成されており、故に、当然にルタは扉に手を伸ばした。そうして、扉は使用者の思う通りに動かされる。扉が開いたことに感慨はなく、だろうな、という頷きがあった。無言の儘に足を踏み入れれば、矢張り、これも当然に、音楽室は、静かで、あった。

 永遠の氷は虹いろの夢、刺すような冬の冷めたさ有していた廊下と異なり、音楽室には寸前まで集っていた学生たちの生温い温度と、人を寄せ付けぬ東棟四階の空気とが、低く混じり合い、漂っている。ルタは静かに、扉を閉めた。ふら、ふらと、上や下にふらつく眼でみた音楽室にはひとり、先客がいた。ひとりの花が、ひとりでいる。それを認めた瞬間、自然、頬が歪む。嗚呼! まったく、なんで暖房切ったままなんだよやっぱそういうとこ頭わるいんだよね、お前。言葉にしない言葉がいきおいよく流れるのを楽しみつつ、暖房のスイッチをいれる。動き出した暖房の、唸る風の音で、音楽室はきっと、すこしだけ喧しくなるだろう。だが、いまやそんな音は何の障害にもならなかった。居並ぶ机と椅子、その中央、ぴんと伸びた清潔な後ろ姿、黒いジャケットを羽織った後ろすがたに向け、ひらひらと手を振り、名前を呼ぶ。

「ヴィトカ!」

 四つの音は正しく放たれた。にも関わらず、黒い頭は俯いた儘で返事はない。そも、ルタに視線を遣ることさえない。だが、だから、それが、ルタにとっては、ひどく、よかった。あまりに都合が好かった。すべてが無言のまま、ヴィトカが座る席の前の椅子を引き、後ろを向いた、互いに顔がみえる体勢で、座る。背凭れに顎を置き、たっぷりと豊かに余った背中を恐竜のように曲れば、ブラウンのルタの頭と、ヴィトカの黒い頭とは、いまにもぶつかりそうなほど近くなる。それでも本から視線を離さないヴィトカに、ルタも視線を送らない。

 ごうごう、動き始めた暖房の声が響く。その音は低く、想定していたよりも遥かに静かで、それも又、原にとって、冗談のように都合が好い。遠く浮かぶ白、汚れた、窓越しの空を眺める。冬空とは程遠い、あまやかな空いろをしている。そう思った。多少、くぐもって、雲も浮かんではいるが、それはそれで悪くはない。すこし前までの、底抜けに陽気で、爽快な、雲ひとつない青空と比べれば、こちらの方がずっと、好かった。ぱちぱち、よく冷えたブルーソーダが窓の向こうでやわく弾け、泡になる。暖房は低く鳴き、埃は沈殿し、ぬるい空気は絶えず室内を回り続ける。ヴィトカは本を読み、ルタは空や床やヴィトカを眺めている。ごうごう、暖房が音を立てるが、併し音楽室は、変わらず、静かで、あった。………………。


 


 音楽室は、静かだった。


「…………………。」


 ぺらり、頁を捲る音がする。


  音楽室

     は、

   静か

だった。



「……………………。」

 ぺら

   り、

  頁を捲る音。と、空が弾ける音は錯覚。


       音

          室 

        楽

      は、

     静

  だっ  か

     た

      。


「…………………」


 ぺらり、頁を捲

        る

    音。

     


「…………………」


         た

     静かだっ

    は

 音楽室      。


「…………………」

 ぺ

 ら

  り、頁を捲る

        音。がして。泡が弾ける。

               錯

       泡        覚

               を

               み

         が    る。


 静かな音楽室には。俺と、ヴィトカが、いる。


       そ

      れ

    から、

      ぱたん。破

      と    れ

       、  て


    「本を閉じる音が、響いた。」




「読み終わった。」

 鈴。合図。シグナル。松葉いろの声が鳴った。

「ん。お疲れさま?」

 ルタはまだ、空をみている。何も視ていない。

「いいや。」

「そっか。」

「あと何分?」

 その言葉が来ると知っているかの如く、ヴィトカが話すよりも僅かにはやく、ルタは時計に視線を遣っていた。

「いま十八分。時間は結構あるよ、ヴィトカは読むのがはやいから。俺が来てからまだそんなには経ってない。あ、途中で俺がパン食ってたの気づいた?」

「気づいてた。音でわかる。」

 音、と言った瞬間に、ルタの下脣が微に揺れる。目敏くそれに気づいたヴィトカは大袈裟に肩を揺らし、揶揄うように、わらった。

「どうしたの。欲しい音でも見つからない?」

「………は、なにそれ。どういう意味。」

 声が震えるのを抑えることができなかった。取り繕う必要を失したルタは今度こそ一切の躊躇なく下脣を噛む。それをみて、ヴィトカが又、から、ころと不吉な音を立て、わらう。

「話せよ。なんでもいいから。」

 そう言うや否や、ヴィトカはルタをみた。何処にでもいて、何処にもいない筈のルタをみた。ルタだけを視界におさめた。ぱちりとひらかれた眼はおおきく、稚い。飢えた子供の視線だ。捕まった、ちくしょう、あァ面倒だ、ルタのしろい脣から深いため息が落ちる。それから、ひとつ、愉快な言葉が浮かんで、遊びたくなる。

「ヴィトカは俺とお喋りしたいの?」

「あァ、したいね。いまはルタの話が聞きたい。喜んでいいよ。お前は寂しがり屋の馬鹿だから、たまにはこうして心臓の奥まで構ってやる。嬉しいだろう?」

 間髪入れず、意地の悪い顔をしてヴィトカがそう言うものだから、堪えきれず、ルタはけらけらとわらい声をあげながら、長い脚を姦しくばたつかせた。

「それで? お前が欲しかった音は?」

 ここからはお前の時間、と。示すように。ヴィトカは自分自身も馬鹿になったように時間をかけ、夕陽が死ぬ時間めいて目蓋を落とした後、再びルタを見遣る、にやにやと、悪辣に微笑ってルタをみあげる。金の眼が騒々しくかがやき、お前を殺す真紅の毒、脣は破滅的なまでに吊りあがる。楽しくて愉しくてしょうがない! 極めて個人的な愉悦を隠そうともせず、当然悪びれもせず、剥き出しであらわした表情が気に入ったのか、ルタもまた、そっくりおなじ顔をヴィトカへと、返した。それから、彼は思案に沈む。


 静かな場所。音楽室。音楽室は、静かな場所。


 「俺が欲しかった音」とヴィトカが言ったのだから、俺はなにか欲しい音を抱えているのだろう。欲しい音。授業の終わりを告げるチャイムや、苦痛を与える練習の終わりを告げるホイッスル。それらはたしかに、聞こえると嬉しい音だ。音というか、合図か。別にいまは欲しくないし、それに、きっとこれは正解じゃない。違うアプローチ。もっとまっとうに、音を指している気がする。勘だけど。ヴィトカならそういう遊びをするだろう。欲しい音。なんだろう。わからない。……なら、すきな音、ならどうだろう。

「ドラムの音、かな。それも誰かのじゃなくて、俺が鳴らす音ね。俺のドラムじゃなきゃだめ。」

「へえ?」

 ヴィトカの、黄金琥珀の眼がきゅう、と細まり、涙袋がぐずりと浮き出る。頬杖をつく右手の小指がぱたぱた躍る。なァ、ルタ。呼びかける脣が、ぱかり、と破れて、しろい歯とあかい舌が、やけに鮮やかに咲いている。

「お前、なんでドラムはじめたの。」

「ん? たいした動機はないし、ただかっこいいかなと思ってはじめただけ。最初はね。続いたのはまた別の理由だけど。」

 そう答えると案の定、お決まりに錯覚、ヴィトカの眼の奥が期待に熟れ、どろりと蕩けたように、ルタの眼に、うつる。それから花、花、花。さらさらとした黒の髪を揺らし、ヴィトカは馬鹿みたいにゆっくりと、首を傾げてみせる。ぐにゃり。視界が歪む錯覚。ぐらぐら、蠱惑的な社会可憐植物があやしく誘うが、生憎とトリップ趣味はないものだから、ルタはかわいらしく肩を竦め、お行儀よく会話をつづけてみせる。

「ヴィトカはライヴとか行ったことある? ロックバンドとかの。」

「ない。」

 即答。こうして、なんの装飾も用意せずに言ってみせるところが好ましいと感じる。或いは、ルタはそうやってなにかを言われることがすきなのかもしれない。そこのところは、ルタはいま、興味がない。

「ああいうタイプのミュージシャンって大抵ね、演奏のの途中に…… まあだいたいはね、ボーカルがぺらぺらお喋りする時間があるんだ。それでそのあいだ、ほかのメンバーがなにしてるかって云うと、楽器の調整をしたり、水を飲んだり、ボーカルの話を聞いてたりしてる。そのなかでたいていひとり、誰かが、ギターをチャカチャカ鳴らしたり、ドラムを小さく、本当に小さい、細かい音を刻んだりしててね。」

 話しながら、そっと、ヴィトカの顔を覗き視る。頬杖をついたヴィトカはおおきな眼に蓋をして、併し心地好さそうにルタの話に耳を預けている。その表情をみとめた瞬間、ぞくり、と。落雷、背中にあまい痺れがはしる。冬風が窓をノックする音が微か。だが生憎と上も、下も、ヴィトカ以外を見詰める眼は消え失せていた。だってほら、あかい脣がぐずぐずと持ちあがっている。その理由の見当はついている。

 ルタに友人があるように、ヴィトカにもヴィトカのコミュニティがある。ヴィトカが持つ関係性の殆どをルタは知らない。なかには、めまぐるしく明滅するヴィトカの脳の速度に着いていける誰かもあるだろう。併しそれは問題ではない。それは問題に、ならない。あの映画館、あの微笑い。あれを観測したときから、ずっと、知っている。ぴたり、重なって、しまった、から、これに関してはわかってしまった。だってほえあ、知っているんだからしょうがない。

 窓の外には陽気な風。出涸らしのクリィム色した教室のカーテンよりも、少しだけ濃い黄色の群れ。窓の向こう、銀杏が揺れて、揺れて、舞う、踊る、お前のラストステージ。

「誰もが静まりかえって…… たったひとりの言葉に意識を集中させる。ドラマーはいちばん後ろ、邪魔にならない、だけどそれなり大事な演出として音を刻む。さらさら流れてく砂時計みたいな感じ。必要ないけど必要なの。」

「ふふ。で? お前は?」

 相変わらず目蓋は眠らせた儘のヴィトカが、我慢できずに挟んできた声は春のいろ、そんなに浮き浮きしないでよ。なァ、俺だって我慢してるんだ。痺れが背筋を駆けあがるのにおされ、ルタはぐんぐんと言葉を繋げる。

「俺はずっと…… ずっと思ってた。ずっとね。ぞくぞくしてた。スティック持ったこの手に、今よりすこしだけ力を加えれば。手首の角度をちょっと変えてみせたら。腕を持ちあげたら。この空間は、みんなが暗黙につくりあげた完璧な静けさは、忽ちに崩れる。滅茶苦茶になんだよ。滅茶苦茶にできるって。ばらばらになるかな。ぐちゃぐちゃになるのかも。もし本当にやったら、どうなんのかなって。ずっと、考えてた。」

 かっこいいかな。そんな程度で始めたドラム。適当にバンドを組み、小さなライブハウスでも演奏するようになって、そうしたらあの空間。けっしてはじめてではない。何度もライブに行き、何度も経験はしている。併しそのとき、ルタは客席に、いた。

 いざ自分もステージに立つと、見える世界は笑えるくらいに別物で、あった。手に肉刺をつくり握るこのスティックは、音を鳴らすだけのものではなかった。空間を一瞬で滅茶苦茶にできる道具にも、なり得る。ルタはそれを、誰に教わるでもなく実感した。なんだかんだと言いながらそれなりに熱を入れて練習した時間や、適当にお座也の、適度にぬるい、バンドメンバー、こいつらの関係、そういう全部を、たったこれだけでいますぐ台無しにできる。生命を奪うわけじゃない。けれど俺は間違いなく、こいつらを殺すことができる。

「しろいスポットライトを浴びながら、客席に向けて照れながら話すメンバーの背中をみてたら、そういう考えが生まれて、纏わりついて、離れなくなった。ほんのちょっと。ほんのちょっと力を入れるだけ。滅茶苦茶にできる。時間も、関係も、青臭いその笑顔も。そう思うと堪らなく興奮した。後ろでこんなこと考えてるヤツがいるだなんて、想像もしない無防備な背中が笑える程愛しかった。」

 まァ、しなかったけど。肩を竦め言えば、それはもうあからさまに、ヴィトカは綺麗な顔をぐしゃぐしゃと顰める。それがなんだか無性におもしろく、愉快で、愛しくて、馬鹿らしくて、静寂を求めやってきた音楽室に、ルタはとびきりの笑い声を響かせた。するとヴィトカの眉間の皺はどんどんと濃くなり、だからルタは、どんどんと、いっそう、こころがたのしくなる。

「さっきまであんなに安らかな顔だったのに!」

「お前が期待外れだったから棄ててきた。」

「ふふ、だってさ、めんどくさいよ。実際にやったら客とメンバーとそのお友達からグチグチ言われてさ、それがもっと広がって今度はちっとも関係ないやつにまでグチグチ言われるんでしょう?」

 そんなの面倒だ。だから、しない。倫理でも、道徳でも、なかった。ただ、生活だ。だが、倫理や道徳のない生活などあるだろうか?

「なァ、ひとってひとりじゃ生きていけないだろ。」

「なに? 急にどうしたの。ヴィトカ。」

「べつに。ただの事実。」

「綺麗事、って言わないんだ。キモいからやめてよね。」

「ケースによるだろ。少なくともいま話してんのは現実の話だ。社会の話だ。そこから目を背けけるだけのやつは笑い飛ばすけど。」

 まあそうだね、などと相槌を打つ、確かに、ヴィトカの言うことは、ただしい。未だ若いルタやヴィトカとは、殊更にそれを実感している。併し同時に、俺たちはまだまだそれを分かっていない、ともルタは思う。さらに、きっと、ルタはヴィトカが言う程には、それを理解してないのだとも、思う。

「社会に生きる人間である以上、他者と関わるのは避けられない。だけどルタ、俺はすきだよ。気に入らない人間の世界を滅茶苦茶にしてやるのが堪らなくすきだ。絶望した顔をみると興奮するし、誰かのためとか言いながら、理性と正論の皮が剥がれてみっともねえ表情が露わになるのをみると身体中が熱くなる。でもって俺は、この世の大半の人間が気に入らない。」

「わお。サイアクじゃん。」

 うげ、と顔を顰めてみせ、けらけらと冷笑、わらってみせる。とうのヴィトカはといえば、俺のパフォーマンスには目もくれず、ぎらぎらと眼光、鈍った、暗い、鋭い輝きで俺を射殺そうとしてくる。朝が眠るように夜が目覚めるように扉が開かれるように、永遠の一瞬みたいな速度で脣が裂けて、それをみているオレはただ、花がひらいたな、と思う。

「ルタ。俺はすきだ。この世界で生きていくために必要で適切な言動なんて分かってんだよ。痛いほど分かってる。ンなもんはとっくにこの身に染みてる。それでもだ、それでも俺は、この世界の正解を踏み躙るのがだいすきだ。」

 ねぇなんで。なんでそういう話を俺にするの。なんで俺に呼びかけんの。ねえヴィトカ、お前ってさぁ。

「そのタイミングで名前、呼ぶのやめてよね。まるで同類みたいじゃないか。」

「馬鹿。同類だろう。」

「ちげえよ馬鹿。でもそうだよ。あってる。それでいいよ。だって、俺と同類ってことは、ヴィトカも俺とおんなじ類の馬鹿ってことでしょう?」

 するとヴィトカは、ふふ、と。矢張り、馬鹿のようににわらってから、そうだよ、と。芯から嬉しそうに云うのだ。花が腐り、肺が、胸が、喉が、ぐずぐずに焼け焦げたにんげんめいた、あかい、堪らない表情をして、云うのだ。不意にチャイムが鳴る。昼の休憩がじきに終わることを告げる音。校舎全体が俄かに騒がしくなり、何処からか這入り込んできた、冷めたい、寂しい風が、ルタと、ヴィトカとの横顔をひと撫でしてから過ぎ去ってゆく。

「俺たちは農民になれない。」

 言葉と共に、聴こえぬピアノの音があたまに響く。きっと、シのフラットだ。知らないけど。などと適当な思考の儘に、伏せられたために視線を遣れどもヴィトカの顔はみえない。みえないが、それでも。ルタは凝と見詰めている。

「……なれない、とか。勝手に決めるなよ。」

 絞りだした言葉は細かな震えを纏っていた。構わず、ヴィトカがつづける。

「殺してくれる銃弾を待ってる。」

 今度こそ、ルタはかんぜんに沈黙をした。敵わない、という想いと、お前になにがわかる。というこころ。それから、ヴィトカにわかってほしい、という、不可能と知悉している欲望。

「なァ、それでいいだろう? あーあ。俺もお前も正常だよ。痛いくらいに正常だ。エンドロールも流れやしねえ。」

「馬鹿じゃないの? 俺たちは狂ってない。エンドロールも必要ない。俺たちは正気の愉快犯で、此処はフィクションでも、お前の脳内でもないんだから。愚かなことばかり言うなよ。ご自慢の頭をつかって馬鹿しよう。そうじゃなきゃヴィトカじゃない。」

「俺じゃないってなんだよ、馬鹿。」

 そう吐きながらもヴィトカは、満更でもない顔をして、熱を自覚する心臓、ルタはぎゅうと眼を細める。互い、弛んだ脣には言及しない。

「ねえ、ヴィトカ。」

「なに。」

「ちゃんと考えてよ。どうすりゃ俺たちが、この世界で生きていけるか。」

「言われなくても。考えて考えて滅茶苦茶にするから気持ちいいんだろう。」

「ひどいやつだ。まったくほんとうに、ひどいやつだ。」

「いいだろう? 墓場にしていいよ。」

「あは、死んでもごめんだね。」

 ヴィトカは上機嫌だった。おなじように、ルタも機嫌がよかった。

「機嫌がいいついでに明かすけれど、間違いなくお前は楽園だと感じてる。ヴィトカ、俺は本気でそう思ってるんだ。でも、いまを俺の人生のピークにはしない。」

 そこのところをよろしく、と。ルタが伝えれば、頬杖をついた右手の、しろい、長い中指だけを綺麗に浮かせながら、ヴィトカは蕩けるように、微笑った。うぞうぞと花がひらき、重い、あまい、蜜が溢れだす。しろい歯の奥、真赤な舌が破れるように綻び、ルタに誘いの手のひらを差しのべる。

「俺の手足になってくれる? 探してるんだ。探してたんだ、ずっと。」

「誰がなるもんか。……こう答える俺が、ヴィトカはすきなんでしょう?」

「あァ、だいすき。クソ、死ぬほどすきだ。だからヴィトカ、世界が燃えるのを俺たちでみよう。」

「いいよ。一緒にみよう。病めるときも、健やかなるときも。」

 秘密のように顔を近づけわらいあう、授業開始のチャイムが響くなかで、俺たちはひっそりとヴェール。

 ねえヴィトカ、と。よく整えられた緋色のネクタイを無理矢理に引張り、俺の世界でもっとも性質の悪い脣に直接言葉をながしこむ。ねえ、ヴィトカ。

「俺はお前のことがさっぱり理解できないし、できるとも思ってない。だけど、それでも俺は、勝手に、お前の隣で遊ぶから。俺がそれを選んだの。」

 嬉しいでしょう? と付け足せば、眩しい春、驚いた間抜けな表情、それでいて当然めいて、ヴィトカはひどく、吐気がするほど綺麗に、春の花が咲く、うつくしく、微笑った。

「とりあえず、授業を放って何処かへ行こうよ。既う始まってるんだから一緒でしょう。」

 からころとわらう、ルタがそう云えば、ヴィトカは眼と、脣とを柔と弛め、ひとりで教室に向かおうとする。​───なァ、ヴィトカ。俺と出逢っておいて、いまさらひとりになれると思うなよ。ルタは勢いよく立ちあがると、高鳴る心臓の鼓動、ヴィトカの隣に寄り添った。




おしまい

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