Argus, Arca Noë/バデーニと親友


Argus, Arca Noë   


 盗られた、と。確信したとき、バデーニは暫時呼吸を忘れた。閉ざす余裕もなく呆けたすがたを晒した、開いたままのしろい脣からはたらたらと涎がつたい落ち、それから、稍の時間の後、バデーニはいろの薄い眼を力強く開いた。そうして、彼にしては珍しいことに、周囲にある物ではなく、自身の太腿や、腹を何度も、何度も殴りつけた。挙句しろい手を頸筋へと伸ばし、数秒呼吸を苦しめもした。こういった冷静を取り戻すための自傷の後に、ふう、ふう、と。荒い息をしてバデーニは遮二無二部屋を飛びだした。そうして…… そうして、友から決闘を申し込まれたとき、バデーニの腹は据わった。こいつを殺して、殺して、それと同時に、この愚かな自分も殺してしまおう。剣を携え夜の街を歩く、足取りは既に平生にかえっていた。

 暗い夜闇のなか、決闘がはじまる。互いの息遣いが聴こえる静寂を共有するのははじめてではなかったが、併し生命の遣り取りをするのは当然ながらはじめてで、互いに鼓動がどく、どく、と不自然に脈打っている。身体能力にさしたる違いはない。剣の扱いも同程度。お前を殺す、お前を殺す。バデーニは必死に息巻いた。お前を殺す、お前を殺す。お前を殺して、私も殺す。バデーニは懸命に唱えた。身体の動きは測れるが、親友の表情はよく見えない。おかしい、いつもの私ではない。そう思いながら深く、一歩踏みこむ。相手の剣が頬を裂いたが構わずに足を前にすすめ、友の胸に剣を突き刺した。瞬間、バデーニと変わらぬ長身がびくりと痙攣する。それを認め、勢いよく、躊躇いなく剣を引き抜けば、金の髪、かんばせ、服、すべてが赤に染まる。月光に照らされた剣は血にぬめってひかり、ぴか、ぴか、ながれる星の線のようで、あった。ひろがる光景、血の星々、に眼を奪われたバデーニの前で、ゆっくりと、細かに震える腕がのっそりと動き、剣が脣を縦に、なぞった。細い、ながい、赤が、地に滴りおちる。胸許に血を滲ませた友はその血を厭わず、静かに、しずかに剣から手を離したらしく、から、からと剣が地に落下する音。伸ばされた手、そうっと、バデーニの頬に触れる。微笑む。

「確信したよ。……私と君とは、たしかに友人だ。それも他に代わりのいない、又とない、深い友愛が、われわれにはある。」

 だから、と。友は言った。だらだらと流れる汗がまなこに滲み、視界はぼやけていたが、それでもバデーニは、どうにか彼をみようとした。眼を逸らすまいとした。いま、この瞬間、このときばかりは絶対に、友のすがたを見逃してはならぬ、という、不可思議な、確信めいた予感があったためである。

「私たちは友だちだからだ。バデーニ。だから…… 君は私を殺すことができる」

「は? お前、こんなときに、なにを言っている?」

「あは…… こんなときだからこそ、相応しいだろう? なァ、お前になにかを尋ねられるのがずっとすきだった。気分が好かったんだ。俊英同士、私たちにしかわからない会話。誰にも懐かぬお前が私にだけは心を開き…… 知を共有することを選んだ」

「あァ、そうしていま、己の短慮を後悔している」

 お前には過ぎた知識だった。俯きたいこころを必死に押しとどめ、バデーニは凝と友をみる。きんいろの、長い、分厚い睫毛が戦慄く、いろの薄い眼による一心な視線を受け、彼はただ、ゆっくりと、微笑んだ。そこにはただ、充足があった。バデーニからすれば憎い程に、そこには微塵の後悔も浮かんではいなかった。

「後悔などしてくれるな。あの研究成果は私たちふたりが相互に関わりあってできたものだ。お前の知識のなかに私はいる。なァ、バデーニ。……お前だけが私の友だちだよ」

 それが終の言葉であった。友は死んだ。バデーニによって息絶え、死んだ。互い幾つもの切傷に塗れ、血液に塗れ、醜く、かつてふたりであった骸が、静かに、静かに、存在していた。そうしてひとりの、英傑が、うまれた。


箱庭の誕生:出逢い


 それというのは奇妙なやつで、さらにひどく傲慢でもあった。奇異な言動と傲岸不遜な態度。そうして、きわめて優秀な頭脳。P国でも有数の私塾であるここには、様々なところから様々な若者があつまる。これらに共通するのは頭脳に秀でていること、好奇心や知への欲求の深いこと、将来を嘱望されていること。優秀な若者のあつまるこの場所で、それはとりわけ秀でていた。高い背と、象徴的な金の髪、ひどく冷めたい感じのある、いろの薄い眼、穏やかだが鋭さを示す声。名はバデーニ。最後の子音を発するときに、朗らかに口を横にひろげるのではなく、歪なかたちで口を開け、ィ、と発音する奇怪な傾向があった。


 さて、なぜ私がこうもバデーニの話をするのかといえば、私が彼の唯一の友人だからに他ならない。尤も、私にとっても友と呼べるのはバデーニのみであったが。出逢いは単純だ。なにしろ入学したそのときから、同率主席であった私たちは互いを強く意識していたし、同時に、自分より優れた者がいるわけはあるまいという、あまりに無垢な自信を携えていたのだから。神学の講義の最中、質問のある者は。と、講師が座席を見渡した。ちょうどそのとき、挙手したのが私とバデーニだった。私たちは一瞬、互いに顔をみあわせたが、併し構わずにめいめい話しだした。そうして、講師に問うた私と彼との内容は、まったく揃いの内容で、あった。

「何故惑星は、後ろへ戻ったりするのですか?」

 この投げ掛けに講師は暫し恐懼の表情を浮かべた。その後も持論を展開する私たちに向け、顔を青くして彼は言った。

「お前たちは指導室行きだ」

 いまにして思えば発言こそが問題なのではなかった。私たちの傲岸な言動は集団の秩序を乱すものであったし、今後そういった振る舞いをせぬよう、早めに対処しようとの判断であったのではないかとも思う。だが当時の私たちにとって、講師の判断は彼の矮小さの証左でしかなかったし、翻ってこの私塾がわれわれの頭脳にとり如何に狭い檻かをあらわすものでもあった。とまれ、指導室で共有した時間は私たちに関係性を芽生えさせた。私は彼を知っていたし、彼も私を知っていた。そうでありながらこれまで声をかけなかったのは、自分こそがもっとも優秀だという自尊心のためだ。併しそれも指導室に放り込まれた状態であっては用をなさない。互いが既に名を知っていたために、私たちのあいだには「相手の名前を尋ねる」という関係性構築に於いて殆ど必須とされる過程を要さなかった。彼はただ、独白めいて「くだらないな」と言い、私も又、同様の温度で「まったくだ」と言った。そこから、私たちは互いを認めあった。他の生徒も、講師も、取るに足らぬ。私には彼が、彼には私がいる。この状態を私たちは受け容れ、それは望ましいものだと頷きあった。

 知の共有はたのしかった。私にはない視点で問題をあきらかにする彼の頭脳は素晴らしかったし、同様に、これは断じて驕りではなく、相応のものを私は彼に提供した。ものとはつまり「知」であって、言うなれば私たちは共同研究者であった。私たちは互いに問題だと感じるものが似ていたが、それに対するアプローチはまったく異なっており、彼がマクロな視点に拘泥するさいには私がそうでないアイディアを明け渡し、私が細部に拘るあまり全体を掴み損ねているときには彼が優れた助言をあたえてくれた。私たちは上手くやっていた。それはもう、最高に。


奈落の門には猫がいる 転生AU


 からん、と。氷の溶ける音。

「……つまり、宗教とは単に非日常的なものではない。それは日常的でもあるし、非日常的でもある。ふたつの要素を持ちあわせているんだ。日常内部に顕現する超越的なものと、日常そのものに神的な意味を付与すること。これらが宗教の役割であり、効果なんだ」

「『文字は殺し、霊は活かす』。ディオニシウス・アレオパギテース曰く……『神は有限な存在ではない、神は死なない、神は物質的なものではない』ヴィトゲンシュタイン曰く『語り得ぬものについては、沈黙しなければならない』。さて、どうしたものか」

「決まっている。可能な限り語りつくすのみだ。精魂果てるまで言葉を尽くし、そうして浮かびあがった血濡れの輪郭がそれだ」



 からん、と。又、氷の溶ける音。みずいろの縞模様の描かれたストローを咥える。ミントリキュールのはいったアイス・ミルクティーがしろい咽喉に落ちてゆく。いろの薄い、霧がかった湖は私を見詰める災厄の眼。その眼の下に、ふたつの傷がある。傷の跡だ。かつて私が彼にあたえたもの。ならば。

「バデーニ。……その傷は、私のものか?」

 この肉の器にふたたび落ち、彼と出逢い、そうして幾つかの彼の変わるを知った。彼は以前よりほんのすこしだけ思慮深くなり、私以外の周囲の言葉に耳を傾けるようになっていた。尤も、この記憶の語るところの、私がかつて行った彼への仕打ちを思えば、私の意見を以前と同じように聞き入れていることも相当に奇異ではあったが、併し彼の奇異なるはそれこそ以前からのものなので、私は別段気に掛けはしなかった。真に重要なことは、私の脳は以前同様の卓抜を示しており、彼も又、優れた頭脳の持ち主であるということだ。

「それは私の肉体の所有権が誰にあるかという話か?」

 分厚い金の前髪のしたで彼が眉根を緩めた気配がする。結局のところ、研究成果を盗もうと。決闘を申し込もうと。その果てに私が死んだとしても。私たちの関係性に目立った変化はなく、ただ、私の知らぬ間に、バデーニになにか変化が生じたことだけが確かだった。……願わくば私は、その変化の一因に私があることをのぞんでいる。

「お前の肉体の所有権は言うまでもなく天にあるとも。私の肉体がそうであるようにね」

 だけど、と。私は椅子から立ちあがり、向かいに座る彼へと腕を伸ばした。そうして、触れる。ふれる、なぞる、しろい脣を縦に裂く、落雷めいた傷跡。頬を貫く一閃の痕。指先を這入り込ませるように深く、ふかく、おくへと、ずっと。何処までも私を受け容れるその傷跡たちは、バデーニの身体に宿る、宿した、私が、私のための、聖痕だった。

「お前のこの傷だけは、お前のものでも、誰の……だれのものでもない。私の、私のためだけの、奈落へとつづく深い孔だ」

 ゆっくりと私はわらった。暫くのあいだくつくつと腹を震わせていたが、ふとわれに返りバデーニを見遣れば、彼は素知らぬ顔でストローを咥え、相も変わらぬ太々しい態度で紅茶を啜っていた。それでこそだ、と。私は無音の喫茶で手を叩く。


Tomorrow is in the aquarium   転生AU


 銀の鯨を見詰める横顔を見ていた。バデーニの髪はスライスした檸檬の一枚を陽に透かしたときのいろに似ている。暗い館内のためか日頃より却って濃く見える眼のいろは氷河の冷徹な偉大さだ。或いは昨年にふたりで訪れたショルデンの空模様。ざぶん、と。おおきな波音がして、銀の鯨が身体をくるりと一回転させた。ざぶん、ざぶん、規則的に波が揺れる。バデーニの眼はいつも霧がかかっているような、不思議な、半透明の膜に覆われている。その膜は薄暈けているのだが存外に分厚く、彼の眼にうつるものを周囲に悟らせない効果を持っていた。いまも、彼がほんとうに銀の鯨を見ているか、私にはわからない。ただ、銀の鯨の水槽を見詰めている。だから、銀の鯨を見ているのだろう、と私は想像する。長い時間、私たちは水槽の前から動かなかった。言葉はひとつもなかった。ざぱ、ざぱ、鯨が泳ぐに伴う波の膨らみ。水中から上昇する白い泡。優雅な鯨の泳ぎ。そういったものを、見ていた。

 首から個人証明カードを提げた仏頂面のスタッフがもうすぐ閉館時間だと私たちに告げる。名残惜しい気持ちになりながら靴の先を後ろに動かそうとして、やめる。どうせ聞いていないだろうと、きんいろの髪の下にある肩に触れ、バデーニ、そろそろ時間だ。と、言った。とんとん、三度同じことを告げる間、スタッフは不審な眼で私たちを見ていたが、しかしそういったまなざしは私たちにとり慣れたものであったから、特に気にもかけず、ようやっと此方を見たバデーニに「帰ろうか」と伝え、バデーニはぱち、ぱち、と数度のまばたきの後に「そうだな」と言った。


 帰路の話題は専ら銀の鯨だった。あの鯨の生態、生息環境、骨格はどんなふうか、なにを食べるか、あの偉大な生物を人間の用意した籠のなかで管理する愚かしさ。バデーニはそれでこそ人間だと鼻でわらったが、私はわらわなかった。銀の鯨は生息数がきわめて少なく、把握されているその殆どが研究施設の管理下にある。そのような扱いを受けている理由はさまざまあるが、要するに銀の鯨という突然変異はめずらしいからだ、と私は思う。ゆらゆらとひかる銀の皮膚は稀少かつ高価で、現在は流通が禁止されているものの、既に出回っているものに関しては相当な値が与えられている。めずらしいから。ほかと違うから。だから狩られる。捕獲される。数が減り、今度は箱庭のなかで管理される。

 縮図だな。とバデーニが言い、私たちの未来だな。と私は言った。俊英たる私たちは、はてさて、この世界でどう生きてゆくのだろうか。


汝自身を知れ 幼馴染・幼少期


 かつてヘスペリデスの園から黄金の林檎を盗んだ者があったが、結局は徒労に終わった。人は人の分際を越えてはならないからだ。かがやかしい黄金林檎。俊足の女狩人を惑わせ、三女神をも惑わせた。境界の果実。神と人とを別つ果実。銀の林檎は楽園の名前。最初のふたりがくちにした愛の象徴。愚かなお前たちの薔薇が林檎。


 丘の上で星をみよう。バデーニのその思い付きは素晴らしいものだった。私たちは望ましい手順通りに準備を整え、家に許しを得ると夜の広場で待ちあわせた。先に着いたのは私で、しかし十分も経たぬ間にバデーニはやって来た。霧模様の眼を細め、柔と微笑みまがら。私たちの街の付近は丘陵地帯であったが、なかでも星の観測に適した具合に開けており、相応しい高さを持った丘と呼ぶべきものはふたつあった。街から近いほうの丘へ行くのだと家には伝えたが、当然、私たちが向かうのはより眺めの良い、子供の足にはやや遠い、少し離れた場所にある丘だった。道中、私たちはさまざまな話をした。夜に街の外を出歩いていること。それも父親には嘘を吐いて。諸々の条件は高揚を齎し、夜の暗さなど恐るるに足りず、足取りは軽やかだった。時折強い風が吹き、バデーニの、月灯を受けさやさやとひかる金の髪を揺らした。その度に彼は眼にかかる髪を煩わし気に払い除けていたが、私はそれをずっとうつくしいものを眺めるように見ていた。きんいろの髪。分厚い、半透明の膜を持った、つめたい青の眼。よく磨かれた石を思わせる硬質な皮膚。それらが天体のひかりを受けかがやくさまは、いつも無言のまま、けれどもひどく雄弁な調子で私に美を語った。そうしてバデーニ自身は、そんなことなどつゆも知らぬ様子で私を凝と見詰めるのだ。親しげな、友愛のまなざし。それを彼が向ける相手なぞ世界で私ひとりしかいない。その事実はどんな星々よりも太陽よりも美しいと、私は思う。

 観測は素晴らしかった。その成果は私たちを大きく満足させるものであったし、何時間も草の上に並んで寝そべり、夜空の変化を眺める企みはたのしかった。星々は、月は、動いているのだ。地球を取り巻く夜闇は帷。そうしている間に夜が白みはじめた。暁星を見送り月が半透明になった頃、私はふと思いだしたように空腹を感じた。音を鳴らせた私の腹に眼を遣り、バデーニは薄く微笑う。

「麺麭と林檎がある。」

 うつくしい皮膚を持つ指が布袋からひとつ、薄朱い林檎を取りだす。白い手布で林檎を拭くと、バデーニはほら、と。私に林檎を差しだした。霧の向こうの青い眼が、恐ろしい程に無垢ないろを携え、凝と私を見詰めている。その眼が持つ、或る異様な迫力に私はすっかり気圧されてしまって、どうにか「お前が持ってきたのだから、最初のひとくちはお前であるべきだ」と彼に説いた。バデーニは私の言葉に神妙な、それでいて深く得心した顔で頷くと、それもそうだ。と言い、白い、未だ短い歯を、朱い果皮に突き立てた。軽やかな音を立て破れた果実の淡黄は友の髪によく似たいろで、脣から滴りおちる果汁を手の甲で拭ったバデーニはなにも言わず、太々しい仕草で私に林檎を渡す。ありがとう。そう伝え私は林檎に齧りついた。バデーニより一年はやく生まれたために、私のくちは僅かだが彼より大きい。彼の残した歯型の上に歯を突き立てれば、バデーニの跡などどこにも存在しなくなる。ただひとつ、私のくちのなかを除いて。その事実が、どうしてだろう、背が震える程、快かった。この夜の記憶は特別なものとして私の中に残っている。


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