四つの部屋、あなたの声/きりルカ

Fumage発表前に書いた

きりルカ新ユニット

泡沫永遠文章


 事務所内で新たなユニットを再構成する。それを聞いたとき、また奪われるのかと思った。現在の事務所に所属し、最初はソロ活動。次はコメティック。そして息つく間もなく「次」がやってきた。別段、コメティックが自分の居場所だと主張したいわけではない。ただ、少しだけ、落ち着く場所だとは思っていた。自分を慕うふたりに応えてやりたいと思う程度には、心を許していた。だから、あァ、まただ。プロデューサーの人好きする笑顔が浮かぶ。あの頃、思った通りに。アンタといると、私は私を奪われる。……本当に? 本当に、そうなの?


「いや、そうじゃなくて……! もちろん、ルカを不安に…… いやな思いをさせてしまったことは謝る。それは全面的に俺が悪いし、プロデューサーとして良くなかった。でも、…… ありがとう。その気持ちを、こうしてぶつけてくれて。うれしいよ」

「なに勝手によろこんでんだ。そうじゃなくて、しろよ。説明。なんか意図があんだろ」

 ばつの悪い表情を浮かべつつも喜色を滲ませる、器用なプロデューサーに眉を顰めつつルカは続きを促した。ひとりで考え込むばかりでは、ひとりで勝手に思い込むばかりでは。それではいけないのだ、それでは解決しないのだとルカは知っていた。プロデューサーとの時間や関係性が育んだ信頼めいたものが、白い包帯のようにルカの心を包んでいた。その包帯をぎゅっと握りしめ、大丈夫だ。信じてみよう、と。どんどんと悪い方向へ進む空想、おのれの作り出す物語に打ち克つべく、ルカはプロデューサーのもとを訪れ、問いを投げかけたのだった。

「こちらの意図は当然説明させてもらうよ。ルカにも、みんなにも、納得してもらった状態で新ユニットをはばたかせるのが俺の仕事だ」

 そうして始まった長い長い説明の後、ルカはひとこと「わかった」とだけ、言った。新ユニットに納得したわけではなく、ただ、こうも真摯に言葉を連ねるアンタを信じてみるよ、という意味での「わかった」だった。わかったのだ。信じていい相手だと。ルカの言葉を受け、プロデューサーはゆっくりと「ありがとう」と言った。その言葉の、胸に滲み入るような温い響きに、痛いような哀しいような、妙に苦しい心の波がやってきて、顔をくしゃくしゃにしてルカは少しだけ、微笑った。



 そうしてユニットを組んだ相手は、アンティーカの幽谷霧子であった。身長はルカと殆ど変わらぬ高さで、厚底の靴を履いているぶん、ルカは僅かだが霧子を見下ろす形になる。まるい頭。たっぷりとした、長い、深い灰の髪。静寂と愛とをひそめた大きな眼。長い睫毛。いろの薄い、形の整った脣。象牙いろのなめらかな皮膚。西洋人形を思わせる可憐な少女は、少しの戸惑いをみせながらも脣端には柔和な微笑みを湛えている。病院のスタッフやファンから天使と称されることのある霧子と、若年層のカミサマとして知られるルカ。あまやかな容貌の薔薇少女たる霧子と、鋭い棘と荊の冠、これも薔薇のよく似合うルカ。可憐でうつくしく、柔しくも烈しい。それでいてどこか儚さを持つふたりの新ユニットが、その実力に相応しい評判を得るに時間はかからなかった。



​───ねずみさんは、パンが食べたくてたまりませんでした。仕事でくたくたになって歩く帰り道、ふかふか、ほかほかしたパンのことを考えると、幸せが心のすみずみまで満ち、からだまであったかくなるようでした。

 でもねずみさんには、ふかふかのパンを買えるお金がありません。しかたがない、ふかふかのパンのことを考えながら、固いパンと薄いスープを飲むとしよう…… そう思いながら暮れかけた道を急いでいると、お腹を空かせて動けなくなっているとりさんに出会いました。

 とりさんは、食べ物がほしいと泣いています。冷たくても、固くてもいい。お腹を満たすパンがあれば、飛んでいけるのに……

 そこへ、いぬさんが通りかかりました。いぬさんが持っているのは、ふかふかでほっかほかの、美味しそうなパン……! ねずみさんもとりさんも、それを見てごくりと喉を鳴らします。いぬさんはふたりを見て言いました。

『パンをあげるよ』

『​──でも、あいにくと一つしかないんだ』

『ふたりのうち、どちらがパンをもらうのにふさわしいんだい?』



 ぱたん、と。本を閉じる小さな音。形象の午后を思わせる懐かしさを孕んだ音を耳に溶かし込み、ルカは黄金の眼に数度目蓋を被せた。ダークレッドの脣。それはやわと動き、呆れと柔しさとを抱いた形で話の続きを問う。

「続きは……なくて、自分たちで、考えようねって……」

「なんだそれ。丸投げかよ」

「ふふっ……!」

 くすくす、肩を揺らす霧子から少し離れた位置に座るルカは、不満げに尖らせた脣先を仕舞うと、それで、と。ルカは又、霧子に問いを投げる。幽谷霧子、お前は。

「どんな続きを書く?」

「どっちにも…… 理由が、あるから…… わたしは、アイドルとして、わたしとして…… ふたりに、みんなに、パンをつくれたらなって」

「ふうん……」

 それから暫時、沈黙が事務所内を満たした。流れる時間が夕暮れ時に差し掛かった頃、霧子がそっと音を結んだ。

「あの、わたし、ワンマンライブの映像、観て……」

 ふたりがユニットを組む前に開催された、コメティックのワンマンライブ。その会場で、ルカはファンに問うた。

『なァ、オマエら、何が欲しい?』

 渡せる保証も、約束もしない。それでも、望め。声を上げろ。聞かせろ。私にオマエらの声を聞かせろ。ルカはそう言っていた。

「すごく…… あったかい音が、きこえて……」

「あったかいかは知らねェけど…… それが私のアイドルだよ。」

 照れや躊躇いなく発されたその言葉に、やさしく、やさしく、霧子は頷く。



 幽谷霧子の包帯の下には傷がない。それでも彼女は包帯を巻く。ぐるぐる、ぐるぐると、おまじないのように。斑鳩ルカは剥き出しの傷に包帯を巻かない。代わりにぎゅっとするのだ。そうすれば大丈夫だと知っているから。霧子の、ステージの上では掻き消えそうな儚い声のその内側には、燃えるような熱が、願いが、希望が宿っている。だからきっと。きっとこのふたりは上手くいくだろうと、プロデューサーは誇りを持って彼女らを空へとふたたび送り出した。かつての事務所で、斑鳩ルカが歌ったのは痛みと絶望だった。それはきっと完璧には癒えないだろう。痛みはずっと痛い儘、それでも、ルカは開かれたドアをくぐってくれた。勇気を出してくれた。……だから。だから、見てみたいと思ったのだ。霧子とルカの可能性を。世界は残酷だと知る、やさしいふたりが魅せる希望を。


『パンをあげるよ』

『​──でも、あいにくと一つしかないんだ』

『ふたりのうち、どちらがパンをもらうのにふさわしいんだい?』


 ねずみさんにも、とりさんにも。いぬさんにだって。霧子はふかふかのパンを届けられるアイドルになるだろう。そうして、何が欲しい、と。問いかける。約束も保証もしないけれど、希望を掲げろと伝えるルカは。差し伸べられた手を取るための。開かれたドアの向こうへ行くための。明日を生きる、勇気を与えるアイドルになるだろう。



四つの部屋、あなたの声


 赤い喫茶。壁、机、椅子、天井、窓硝子、いちめん赤に塗られた喫茶であった。この喫茶の唯一の客である霧子とルカとはギャザー仕様の特徴的な裾をした、赤と黒とのチェックコートワンピースを身に纏っており、空間に適切に調和した衣服はこの店のドレス・コードであろうと思われた。赤いカップに注がれた、これもあかい珈琲を啜りながら、店員が机上に置かれた真赤い、血液いろをしたポインセチアの、未だいろづいていない緑の葉を絵筆で赤に塗り変えるさまをルカは凝とながめていた。

「どうぞ。おふたりで分け合ってお召し上がりください」

 音もなくやって来た柊頭の店員が銀の皿を提供。テーブルに置かれた皿からころり、と。ひとつの林檎が転がり落ちた。

「わ……!」

 林檎は霧子が差し出した手のひらに従順におさまる。ころり、ろこ、ろこ。酸味のなかにあまい香。ふわ、ふわと漂って、霧子とルカ、ふたりのあいだを充した。あかい喫茶。赤い衣服。赤い林檎。あかい世界。ねえ、世界はあかるいですか?

「林檎、いただきましょう……」

 そう言って霧子は机上へ視線を向けるが、併し切り分けるためのナイフが見つからない。柔しい眉を緩く困らせ、ァ、と声を詰まらせる霧子を見兼ねルカが開いた脣のあかが、ひかる、ひかる。

「齧れば」

「で、でも、」

「いいよ」

 僅かの逡巡の後、可憐なくちを歌唱時のように大きく開け、それでいて童話に描かれた姫の如く、霧子は林檎に齧りつく。あわい花いろをした脣が淡黄の果汁に濡れ、薄い光を放っている。

「ん、」

 赤の果実を受け取ると、先程の霧子と同じように、ライブでのパフォーマンスを思わせる獰猛な脣でルカは林檎を齧る。人工的な脣のいろが僅かに林檎に移り、淡黄の端を染め上げた。


◼︎


 紫の喫茶。ぎい、ぎい、と世界の扉の軋む音。さかんな音を立てる蒸気機関。カフェテラスの電燈。空にはだれも見たことのない飛行船がとんでいる。部屋は紫。当然に壁も、机も、椅子も、天井も、紫いろをしている。

「空が…… 紫いろ……」

 これも紫をした窓に触れ合う寸前まで顔を寄せ、霧子は外を眺めている。地球の夕焼けと、火星の夕焼けとを混ぜ合わせた空のいろ。紫。居ても立っても居られず、それでもそうっと、静かに、霧子は立ち上がった。行かなければ、と思い、行きたい、と思った。この紫の世界へ旅立つのだ。かえるのだ。勇気を震わせ足許、紫のバレエシューズの先端、ちいさなリボンを揺らす。

「いけません。叶いませんよ、幽谷様。何度でも。林檎の魔法が解けるまでは」

「…………?」

「まァ、座れば」

 とん、とん、角砂糖のはいった小瓶をルカが紫の爪で叩いた。そう、と座った霧子が小瓶の蓋に手を掛けると、中身は想像通り、蝶のかたちをした菫いろの砂糖であった。

「ふふ、ティーカップの海で、泳ぎましょう……」

 ぷかり、世界を泳ぐ、熱い紅茶にいれた蝶はいつまでも溶けない砂糖。


◼︎


 黒い喫茶。何もかもが暗い、闇、灯りのない視界。見えないから、慎重に、手探りで手を伸ばす。ゆっくりと、持ち上げず、床に這わせた儘で足を動かす。寒い、と。ふたりは思った。声に出すのは憚られた。なにひとつ見えぬ世界で、言葉はまったくの無力であるように感じられた。手を伸ばす。手を伸ばす。届け、届けといっぱいに、けれど用心深く。伸ばした手は幾度も、幾度も空を切り、指先は段々と温度をうしない凍えはじめる。併しふたりは諦めない。伸ばし続けることをやめなかったのは、見えぬ故の無謀か、或いは深淵な孤独のためであろうか。とまれ霧子とルカの手は、暗闇の中で出会いを果たす。

「​───」

    「​───」

 ふたり、互い、名前を呼んだ。その瞬間、ばちり、と。世界が爆ぜ、まぶしい、強い、光が、鳴った。ごく僅かの時間、暗闇が晴れる。箒星は長く短い尾を描き去ってゆく。星の駆動制限時間、霧子とルカとは見つけあった互いを眺め、流れゆく星を見詰め、そうしてもう一度お互いを観測した。


◼︎


 白い喫茶。真白いガレット・デ・ロワとともに、霧子とルカとのユニットコンセプトへの理解を深める時間である。コンセプトは明快で、薔薇・少女・偶像で、あった。そもそも、と。ルカは内心に息を吐く。私は少女って歳でもないだろう。そう思いながら、思考を停めることはなかった。なぜなら斑鳩ルカはアイドルだからだ。アイドルとは託されるものだ。歌詞やメロディやダンスを。アイドルとは望まれることで息をして、生き、背負うものだ。言葉や音楽を背負い、纏い、偶像となる。斑鳩ルカは、斑鳩ルカに誇りを持っている。使命を感じている。

「なァ、アイドルってなんだと思う?」

 尋ねたのは気紛れだ。或いは単に興味が湧いたのか。とまれルカは尋ねた。幽谷霧子に。ねえ、あなたの言葉でアイドルを話して。

「ひかって…… まぶしくて…… たくさん、たくさん、鳴っていて……」

 そう言いながら、霧子は、いつかの情景を思い浮かべるようにそっと眼を閉ざした。ぴかぴか、鳴る、ひかる、音、幾多の色彩を持つステンドグラス。少しの時間が経ち、閉ざされた瞼をもう一度開く。その眼は無数の星々がひろがる湖。

「アイドルは…… 祈りだと、いいなって……!」

 薄く頬をいろづかせ微笑う、薔薇薔薇少女は天使、ひとりのアイドルの燃え上がるたましい。それを前にして、ぴか、ぴか、と。薔薇の偶像が描く救世主、ルカのたましいも又、微笑った。白い喫茶。白い壁、白い天井、白いテーブル、白い椅子。机上に置かれた白い造花が静かに、たしかに、鮮やかに、咲き誇っている。



しろく・あかるく


 秋の裾野のまばゆい午后であった。幽谷霧子はふと、天啓めいたある予感におそわれた。それは言葉では表せぬ類のもので、喩えるならばひとつの音である。極限まで張り詰められた弦に薄い汐風が吹き掛けるような、淡い衝撃と、それによって齎される激しい音の明滅。音の形をした記号に導かれ、霧子は自分以外誰も居らぬ事務所をそっと抜け出した。りん、りん、と。音が鳴っている。それは虫の声のようでもあったし、秋風のそよぐ音めいてもいた。脳裏に燦燦と響く音に身を任せ、聖蹟桜ヶ丘の街を歩く。小さなビジューの付いたバレエ・シューズは運動靴に比べれば些か快適さを欠くが、昼には太陽、夜には人工の灯を受け、またたくビジューの白光を霧子は愛していた。

「……もう、すぐ…………」

 少女の、あまい、幽かな声が街並みに溶けてゆく。駅前通りを抜け、もっと遠く、もっと遠くへ。逸る心はあれど、併し今日の靴はけっして歩き易いものではないのだ。そうしてこの靴を選んだ今朝の自分に対し霧子は微塵の怨みも後悔も持たなかった。すべては繋がってゆく。刻々と迫る時間のように。だから走る。前へ、前へと靴を進める。突き動かすのは秋月の予感。

「……もう、すぐ……!」

 霧子は走った。理性に支えられた理由などなく、ただ、予感のみに導かれ走る。内的な直感とも異なる、芸術家であればインスピレーションとも呼ぶような、きら、きら、かがやくそれを両の手の内側にひそめ、霧子は進んだ。丘を駆け、小さな広場めいた公園へと辿り着く。

「ルカ、さん……」

「……オマエ、なんでこんなとこに」

「ふふ……! 音が、したからです……。ここに、いるよって……」

 言葉とともにこぼれる霧子の微笑いに険を抜かれたのか、少しばかりほどけた声音でルカが、そうかよ、と、言った。そこに滲む、ひだまりの残響、微かなやわらかさが霧子には無性にうれしく感じられ、そうです、と返しながら、又、ふふふと微笑う。

「案外よくわらうよな」

「ふふ……っ、ルカちゃんといると……たのしいから……」

 そう言ってから、霧子は、ァ、という顔をした。愛らしい眼を丸くした、常よりもさらに愛らしい表情をみせ、それから、微かに伏目がちな様子で脣をおどらせる。

「あの……わたしも、ルカちゃんって、呼んでいいかな……?」

「…………勝手にすれば」

「うん……! 勝手に、するね……!」

 爪先のビジューをきら、きらと照らす太陽の光線、白い光が照る、照る。靴は迷わずルカへと辿り着き、ルカちゃん、呼ぶ、呼ばれる、名前、よろこびの音を鳴らした。



2.stardust 


『白くて、綺麗で、でも、それで当然だって思われていて…… きっと、とても緊張して降ってくると思います』



「ははっ、懐かしいなぁ! そのインタビュー」

 そうかよ。と返事をしながら、ルカは内心ぞっとする心地におそわれていた。ルカの手元にあった雑誌の表紙から中身を類推したらしいが、これは霧子とルカとがユニットを結成する前の、幾らか古いインタビュー記事であり、にもかかわらず的確に、素早く、表紙から内容へと辿り着いたプロデューサーの偉大なる類推と記憶能力とに、ルカは黒に染めた脣をぐいと下方へ曲げた。

「このインタビューを受けて暫く経ってからさ、霧子と一緒に雪を見たことがあるんだ」

「……聞いてねェ」

「あのとき…… 霧子は…… 出会った頃の霧子が…… 雪に似ているなって、思ったんだ」

「だから、聞いてねェよ」

「ははっ、そうか?」

 鋭く発した声をのらくらと躱し、からからと人好きのする笑顔を浮かべる理想的な青年を無視。雑誌をテーブルの上にそっと置くと、ルカはゆっくりと立ち上がった。

「散歩」

「あぁ、気をつけてな」

 事務所のテレビはニュース番組、天気の表示。踊る雪だるまの愛玩予報が今日は雪の降る日だと告げていた。



『美琴、雪だ…………!』

『ねぇ、美琴、美琴​───​───!』



「くだらねェ」

 なにが雪だ。そんなものは視界を濁らせるごみだ。白い灰も同然。もし本当に今日雪が降ったら、帰り道が夜だろうとコンタクトを外してやろう。そんなことを考えながら聖蹟桜ヶ丘の街を歩いていた。厚底のロングブーツにショート丈の黒いジャージワンピース、さらにその上に、これも黒のビスチェを重ねたルカの服装は穏やかな街からほんの少しだけ浮き、調和からはずれていた。だがそれがなんだろう。どうしたと言うのだろう。現在の斑鳩ルカが調和する世界など、ルカは然程求めてはいなかった。すべては失われたのだ。戻らない。戻らない。もう、戻りたいとも、思えなくなった。取り返そうにも流転、流る世界、緋田美琴もマネージャーも、ルカ自身すらも、もう、あのときとは変わってしまったのだから。

「あ…………、ルカちゃん、ふふっ、おはよう」

 決まりきった挨拶にさえ心を注いで。コメティックとは別の、もうひとつのユニット。ルカのパートナーである幽谷霧子が前方からやって来た。微かに灰がかったミルクいろのロングコートにすっぽりと包まれた姿は年相応のおさなさと愛らしさとがある。こめかみの近くでふたつに結ったツインテールを揺らし、小走りで霧子がルカに近づく。

「……おはよ」

「おはよう、ルカちゃん…… えっと、今日は、雪のにおいが…… するね……!」

 薄くあからんだ頬。量の多い長い睫毛。菫いろの見透す眼。コートより幾分か濃い、薄灰の髪。身体的な要素だけみれば、どこか浮世離れしたところのある霧子の容姿は、しかしこの街に馴染んでいた。世界と親しく調和をしめしている。それが少しだけまぶしくて、ルカは微かに眉を歪め皮肉めいた表情をつくった。

「どこか…… 痛い…………?」

「気にすんな。…………雪に、……においなんてあるか?」

「ふふっ……! うん、あるの、雪の、におい! もうすぐ、来ますよって…… 少し、緊張したにおい……」

 そうか。とだけ返し、ルカは歩いた。行く先を尋ねない儘、霧子はそうっとその隣を歩いた。ふたり、きっと、雪を待っていた。ごみ。ごみ。ごみ。燃えちまえ。そう思うのに、たしかに、そう思っているのに、そう思いながらも胸がちりちりと痛む。プロデューサーの言葉ががんがんと頭を揺らす。霧子は雪に似ている。たしかそんなことを言っていた。そうだ。幽谷霧子は雪だ。白くて、綺麗で、でも、それで当然だと思われている。そのことに少し緊張もしている。だけどそれでも、雪は、霧子は、白くて、綺麗な儘、降りてくるのだ。では、地に落ち踏まれ汚れる雪のように、幽谷霧子もいつかは汚れるのか? 答えは否だ。まだ短い付き合いだが、ルカはそう思っている。ちょうど、コメティックにも少しだけ似たところのある羽那がいる。無垢、だとか、絶対純白領域だとか、ルカからすれば大人の事情だらけの象徴を与えられた羽那は、しかしそれでも無垢な儘、白い儘、この世界を生き抜いている。鈴木羽那が硝子の白い透明なら、幽谷霧子は曇り硝子の雪だ、などと考え、おのれのくだらない思考に嗤った。いつからか身についていた自嘲の癖はもう抜けそうになかった。


「わ……! ルカちゃん、雪……!」

「…………え、」

「ふふ……! 雪、降ってきたよ……」

「あ……、うん、」


 ひらひら、雪が降る。幽谷霧子が隣でわらっている。雪だよ、雪だ、そんな会話。そんな会話。ひらひら、降る、雪が舞う。まるで燃えさかる火の粉だ。灰。ごみ。そう思うのに。そう思う私は、まだここに、いるのに。

 雪だな、と。気づけばそう返していた。霧子の顔がぱあっとあかるくなる。そのやさしい表情が堪らなくまぶしくて、痛くて、やさしくて、ルカは又、痛みを抱いて、微笑う。​───あァ、ライブがしたい。歌いたい。ふつふつと、そんな気持ちが湧きだしてくる。雪を溶かすくらい熱いライブをして、そうして、隣には幽谷霧子。けっして溶けない雪であれ。そんなことを思った。

「……ボイトレ、空いてたら行くけど、オマエは?」

「わ……! ふふっ、うん……!」

 行こう、行きたい。そんな言葉を聞きながら、レッスン室の空きを確認すべく、ルカはプロデューサーに電話をかけた。



聞こえますか、リレー


「もしもし……」


 電話をかけるというのは幽谷霧子にとり特別な行為のひとつである。母や祖母、プロデューサー、アンティーカ。電話がかかってくることも嬉しく、又、何より自分が電話をかけてもよい相手のあることが、霧子には特別で、堪らなくよろこびを感じさせる出来事であった。プロデューサーから初めて電話がかかってきた日のことは今でも鮮明に思い出せる。その後に彼が言った、いつでもかけてきて、というふうな言葉も、霧子の大切な宝物のひとつである。生まれ育った家と、家のような事務所と、アンティーカという自分たちで育んだ家。その三つの家が霧子の背中を押す。心に硬く決意、チェインの画面に表示された蛍光グリーンの電話マークをタップし、ぎゅっと眼を閉じた。

「​───​───」

 電話の音。機械音。いつもであれば親しい音が、アイドルになってより親しくなった音が、今日は少しだけ顔を逸らしている。

「​───​───」

 どき、どき。心臓がおおきくなったように感じる。


「…………斑鳩ルカ」

「ルカちゃん……! もしもし、幽谷霧子です……」

 繋がる電話。繋がった電話。ルカが霧子の電話を取ったことがうれしくて、緊張で冷えていた心があたたかくなる。

「ふふっ…… 電話、出てくれてありがとう」

「別に…… 要件は」

「お仕事が遅くなったから、今日のレッスン、少し遅れるよって……」

 はて、とルカが首を傾げるような、そんな空気の身動ぎと、暫時の沈黙があった。えっと、それは。じわりと額に汗が浮かぶ。ざわざわと胸に不安がそよぐ。それでも、それでも。最初の一歩には勇気が必要だ。その勇気を霧子は既に貰っている。ルカちゃんに電話をかけてみたい。そんな相談をアンティーカの皆に持ちかけ、忙しいなか全員が夜遅くまで相談に乗ってくれた。そうして霧子は、自分宛にかかってくる電話のうれしさも知っている。母や祖母、プロデューサー、アンティーカから繋がれたよろこびのリレー。そのバトンを新しいユニットの相方であるルカに渡したいと、ルカと繋がりたいと、霧子は願ったのだ。

「えっと、電話、ルカちゃんにかけたくて……」

 素直な気持ちを伝えてみよう。アンティーカからのアドバイスだ。うれしい気持ち。やさしい気持ち。電話越しに届く大切なひとの声がどんなに心を落ち着かせるか。霧子はルカともそれを共有したかった。

「…………いいんじゃねェの」

「えっ?」

「別に。かけたきゃ、かければ、電話」


 ぱあっと、霧子の心に光が射す。あかるくなる。うれしくて、ほっとして、少しだけ眼許が濡れるのを感じた。霧子の勇気。霧子の感じるよろこび。それがルカに繋がったように思えて、うれしくて、うれしくて堪らなかった。ありがとう。そう伝え、幾度かの会話を経て電話は終わる。この後、ルカちゃんに会ったら。チェインじゃない電話の番号も知りたいな。教えてくれるかな。あの公衆電話から、ルカちゃんにも電話をかけてみたい。そんなことをうきうき、どきどきと考えながら、あかるい心で霧子はレッスン室を目指した。



拝啓やさしいひと


 花衣学斗は青年である。既に大学を卒業してから二年が経つ。大学では国文学を専攻していたが、周囲のように熱心な理由があったわけではなく、或いは熱心な建前を用意することもできず、人気が薄いというだけの理由で有職故実の研究に励んでいた。さて、昨今の就職活動というのは誠に厄介で、複雑怪奇な様相を呈しているが、構造さえ理解すればそれはひどく単純でもある。大学三年の夏までには企業研究や業界研究、自己分析を済ませ、必要とあらばインターンに顔を出す。秋冬にはエントリーシートを作成し説明会に参加。その後幾度かの選考を経て春前後に内々定を手に入れる。特に伝手を持たぬ学生の定型はこんなところだが、花衣はまず、手をつけるのが遅かった。卒業論文の題材を決めてからと理由をつけ先延ばしにしていた就職活動課題に花衣が取り組んだとき、時期はとうに大学三年の冬であった。花衣はひどく潔癖な、神経質で、常に漠然とした不安を抱えた青年であったから、自己分析というものに取り掛かることができなかった。かと言って花衣にはそれを他者に相談するような心もなく、大学の主催する就職活動支援などにも足を向けず、なんとかなる、ならない、ならないからなんだ、そんなことを絶えず繰り返しつぶやいていた。さらに降り積もる難題、花衣の潔癖さはエントリーシートに求められる「学生時代に力を入れたこと」を空欄にさせる効果をも呈した。ひとえに彼は不快を感じたのだ。就職活動という、かれにとってはくだらぬ人生行事のために、おのれの人生を語り変え、書き換えること​に。それを受け容れることは花衣にとって耐え難い苦痛であったし、到底受け容れられるものではなかった。結果として花衣は、選考にエントリーシートの求められない、地元の小さな企業に勤める次第となった。


「帰りました、霧子さん……」

 仕事を終えワンルームの住まいへと帰宅し、ローテーブルの上にそうっと置かれたぬいぐるみへ挨拶をする。勿論相手はぬいぐるみであるのだから返事などないが、それでも、心がほんの僅かにやわらぐような心地がして、花衣はこの習慣を続けている。ぬいぐるみはアイドルグループ「アンティーカ」の一員である幽谷霧子を模したものであり、ラ・ロッソグリムとの名を冠する、童話の狼めいた真紅の特徴的な衣装を纏っている。

​──そういえば今日、霧子さんの事務所からお知らせがあるって言ってたな。

 ふと思い出し、SNSを開く。するとタイムラインが何やら濁流めいてごうごうと流れており、花衣はあわてて事務所の公式アカウントの名称を検索窓に打ち込んだ。



プロデューサーのみなさん、こんにちは!


283プロ所属アイドル28人が、これまでのユニットとは異なる7組の新ユニットを結成する「PJ: REFRAC7IONS(プロジェクト:リフラクションズ)」の新ユニットとして、幽谷霧子と斑鳩ルカがユニットを組むことになりました!



 最初に浮かんだのは、なぜ、という想いである。花衣は幽谷霧子のファンである。同時に、霧子の所属するアンティーカに魅せられてもいた。インタビューや特集でたびたび話される結成当初のエピソード、アンティーカのユニットコンセプトは自分たちで決めたのだという話や、その後もその在り方の継続と実践とを感じさせる、みずからの意思で、みずからの手と足で、居場所を築きあげてゆく五人が大好きだった。アンティーカという物語を自分たちで描き、実現させてゆく姿。世界という巨大な物語に抗う姿に憧れていた。自分たちで掴んだ場所に立ち、ファンにおいでと手を差し伸べる。そんな姿がまぶしかった。

「なんで、霧子さんから、アンティーカ、」

 奪うんだ。と、上擦った声が出る。新しいユニットなどいらない。正直な想いを明かせばそれが本音であった。そも、花衣は幽谷霧子とアンティーカのファンであって、事務所のことなど詳しくは知らないのだ。事務所合同でライブが実施されていることや、アンティーカが事務所内の他ユニットとも交流のあることなどは把握しているが、しかし特別に関心を寄せているわけではない。花衣にとり特別なのは幽谷霧子とアンティーカなのだ。

「えと、えっと、なんで、そうだ、相手は」

 こまかに震える指で公式の声明文を再度追いかける。プロジェクト:リフラクションズ。新ユニット。幽谷霧子。そして、斑鳩ルカ。

「斑鳩ルカって、あの…………」

 詳しくは知らないが、少し前に移籍してきたアイドルだ。刺々しい見た目と、これも刺々しいパフォーマンス。タイムラインでも時折ポストや画像が流れてくるが、どれも熱心なファンからのメッセージが付属している。いつだったか、少し前に街中で叫んでいる動画が流れてきたこともある。それらを思い返し、こわい、と。花衣は率直な感想を抱いた。それから、霧子さんは大丈夫かな、と案じ、そうしてすぐに「大丈夫だ」と思い直す。霧子さんはやさしくて、やさしくて、それでいてすごく強いひとだから。アンティーカの一員だから。何があっても、斑鳩ルカがどんなひとでもきっと大丈夫だろう。


 花衣の予想は半ば的中し、ゴシックメタルとアイドルデュオの系譜を継いだ霧子とルカとの新ユニットはおおよそ好調と言っていいスタートを切った。もっとも、花衣は積極的に情報を追うことはせず、眼や耳に入る情報のみを嚥下していた。ほころんだ花をさやさやと揺らす春風。霧子のやさしい微笑いは変わらず健在で、花衣はそのことに深い安堵を覚えるのだった。アンティーカでの活動と並行して行われる新ユニットでの活動。その忙しさはファンとしては少し気掛かりであったが、しかし俺が気にすることでもないのだろうなと、青年はどこか冷淡に弁えてもいた。それこそがかれの美徳であった。


 霧子の新ユニット活動が続くなかでふと、時間によって陶冶されつつある傷や疑念と向き合おうとの想いが花衣のなかで立ち上がった。つまり、新ユニットプロジェクトを詳しく知ろうとする試みである。斑鳩ルカがどういう人物か。霧子はどんな様子か。いったいどのような歌をうたっているのか。緊張しつつも花衣は日頃の習慣からもっとも悪い想像を浮かべ、現実はこれより悪くはなるまいとするまじないをかけた。不安に身を浸しながら、もし合わなくとも俺にはアンティーカはあるのだ、そう胸を強くさせミュージックビデオを再生する。

 はたしてそこにあったのは、間違いなくアイドルの幽谷霧子であった。やさしく微笑んだかと思えばつめたい表情を浮かべ、次の瞬間にはキャロル、祈りの音楽を舞いうたっている。ステージにいるのは五人ではなくふたりだけで、花衣にはやはりそれが不満であり不安でもあったが、しかし、霧子の隣でうたう斑鳩ルカのパフォーマンス。これは。これは、絶対だ、と。花衣は理解した。動画を再生する前にルカについて軽く調べ、かのじょがカミサマとして慕われていることを知った。なにを大層な、そんなふうに思う気持ちもないではなかったが、しかし、これは。たしかに、縋りたくなるだろうな。そんなふうに思わせる全身全霊の音楽で、アイドルであった。ステージ上にふたりのアイドル。幽谷霧子と斑鳩ルカ。ふたりのアイドルは双頭の蛇めいて絡み合い、踊り、うたう。ミュージックビデオの再生が終わり、列車が次の駅と進むように動画は次へと進む。ふたりのインタビュー。画面のなかで霧子はうつくしく微笑んでいた。

「ルカちゃんと一緒に、何度も練習をしました……。わたしたちの心を、届けたくて……!」

 ぽつ、ぽつぽつ、雨音、気づけば液晶画面には涙が落ちていた。そうか、そうか。濡れた眦を緩め花衣はにこにこと笑んだ。霧子さんは、どんな場所でも、届けようとしてくれているんだ。届けようと、たくさん、たくさん頑張っているのだ。斑鳩ルカというひとの横で、霧子さんはわらっている。切ないような熱いものが迫り上がり、花衣は嗚咽を漏らした。新ユニット追加に対する事務所の意図など花衣は知らぬが、それでも、それによってこの世界にまた霧子さんの居場所がふえた。あたたかい、かのじょの世界が拡張されたこと。それがうれしいと心から思った。

「あ……、わらってる…………」

 涙と画面を拭ったむこうに、霧子とルカのすがたが見えた。カミサマという物語。ファンの期待と想像。アイドルという偶像。先程のパフォーマンスを思い出す。それらに全力で応えるこのひとは、きっとひどくやさしいのだと思った。

「ありがとう……。」

 抑えきれず洩れ出た声は、ふたりのやさしいアイドルに向けた、ファンからの愛のメッセージだった。



応援歌


 直前の仕事が押したために少し遅れて楽屋へと入れば、お疲れさま、そんな言葉とともに幽谷霧子とプロデューサーとがルカを出迎えた。外の寒さと、暖かな楽屋との温度差で耳がちりちりと痛む。

 霧子は既に着替えを済ませたらしい。とろりとした、重い、分厚い生地はバニラ・アイスを乗せた空いろソーダ。三段重ねの生地は裾にフリルの雲がゆらゆらとそよぐ。腕から手の甲にかけて霧子をまもる包帯。落ち着いた楽園の衣装は霧子によく似合っていた。リボンを着けたハーフアップツインテールの髪をさらりと揺らし、霧子は困ったように微笑む。

「撮影…… 緊張するね……」

 控えめな発言にルカは眉を寄せる。

「アンティーカの幽谷霧子がなに言ってんだ」

 既うじゅうぶんな場数を踏んでいるだろう。とっくに慣れたんじゃないのか。そんな意図であった。

「でも……今日は、ルカちゃんの隣のわたしを…… 届ける日だから……!」

 きゅっと眉を強くして、お日様みたいに。やわらかに。ルカちゃんの隣のわたしをたくさん届けたい。しっかりと伝えたい。雄弁な表情で霧子がそう言ったものだから、ルカは少し驚き、それから、ざわざわ、胸が熱くなる心地を得た。悪くない気分であった。

「……なら、堂々としてろ」

 そうっと手を伸ばし、黒い爪が霧子の包帯に触れる。未だつめたい指。きっと、これから暖かくなる指。

「うん。それがいいと思う。霧子は霧子のままでいいんだよ」

「オメェは黙ってろ」

 そういえばプロデューサーが居たのだった。既に霧子と自分との、ユニットの世界に身を投じていたルカが顔を顰めた。それを受け、プロデューサーは日頃の通りに「ははっ」とわらった。



「それでは、撮影始めます​───」

 セットモチーフは学校の保健室。学校という日常に於ける少しの異界である保健室に置かれた白い寝台を舞台に霧子とルカとを撮るというものだ。ふたり、様々なポーズを描く。切り取られるための自分を描く。本を開き、書かれた言葉や絵で眼をよろこばせるショットもあれば、霧子が赤薔薇、ルカが白薔薇を持ち微笑むシーンもあった。白い寝台。霧子の紡ぐ、新しい居場所。ルカの、新しいあたたかいところ。ふたりで進むための白い船。それを描くものとしてこれ以上ないステージだと、撮影を見守りながらプロデューサーは眼を細めた。眼前では霧子とルカとが包帯を互いに巻き合っている。

 届く、届く、届くように。わたしの気持ちが、あなたに。あなたの気持ちが、わたしに。その手伝いを精いっぱいしよう。ふたりのやさしいアイドルが、行きたいところを見つけられるように。見つけたところへ行けるように。強い決意とともにプロデューサーはそうっと微笑む。撮影スタジオ、保健室には、あざやかな愛の音が満ちていた。


包帯で結ぶ

 

 手に入れたら失う。ならば最初から持たないほうが良い。これ以上は傷つかずに済むから。そう思っていた。そう納得させていた。だけどもし、もしも、最初から、持ってすらいなかったのだとしたら? 緋田美琴と自分が相棒だなんて錯覚で、愚かな、愚かな愚かな夢物語に過ぎないとしたら? きっとそうだ。だってそうだ。私たちが本当に相棒だったら、最高のふたりだったら、解散なんて結果にはならなかった。私たちは負けた。世界に負けた。そう思っていた。でも本当は、負けたのは私ひとりで。私たちなんて幻想で、私は、いつもひとりだったとしたら? ​───嫌だ。それは嫌だ。嫌、嫌、嫌。あの日々を嘘だったなんて言えない。美琴と過ごした幸福が、永遠みたいな毎日が、偽りだったなんて認めない。だけど、だけど、じゃあ、なんで。なんで、私たちは今、一緒にいないの?



「最悪…………」

 眼を開けて見えたのはいつもの事務所の風景。夢よりも何よりも、それが最悪だと思った。この最悪なぬるま湯に馴染んでゆく自分が嫌。暖かな風景なんてくだらない。仲良しごっこはもうしない。夢なんて見ない。そう思っているのに、どうして私はひとりで居られないんだろう。ひとりきりでもこの世界で生きてゆける。そう証明するためにこの事務所へ来たのに。

「紅茶…… 淹れたよ……」

 恋鐘ちゃんが焼いてくれたクッキーもあります。そう言って微笑む幽谷霧子の表情はまるくて、やさしい。幸福みたいに微笑うのが上手いと思った。それから、事実、こいつは幸福なのだろうと思い直す。私とのユニットは仮宿で、アンティーカという家があるのだから。

「…………。」

 それは悪いことではない。まったくもって歓迎すべきことだ。素晴らしいことだ。そう思っているのに、やめろ、そう叫んでも身体は勝手に苦しみを描いた。表情は険しくなり、踵が何度も揺れる。

「あァ​───」

 どうか気にしないでほしい。放っておいてほしい。私がおかしいなんてとっくに分かってるんだ。世界はきっとやさしい。残酷じゃない。だけど本当に? 本当に? 私は美琴の隣にいないのに。美琴の隣に私はいないのに。

「痛い…………」

 あの日からずっと、痛い。魂の半分を失くしたみたいに。痛い。痛くて、からっぽで、何にもなくて、むなしい。それでも、からっぽな器に歓声を流し込んで、愛を注がれて、なんとかルカはアイドルをしている。歌をうたっている。なぜ歌うか? それはもう忘れた。それでも、斑鳩ルカには歌う以外にないのだ。歌い、踊り、叫ぶ。それ以外の生き方なんて知らないし、知らなくていい。たとえ歌い踊るその横に、緋田美琴がもういなくたって。ルカはアイドルをするしかないのだ。

「あの…… なにも、話さなくて、いいから…… お茶会、しましょう……」

 やさしい声が花の涙めいて皮膚に滲み入る。われを忘れ泣きじゃくりたい気持ちになったが、それをグッと堪えることでルカは常の通りの表情を取り繕った。

「…………」

 なにかを言おうと、誤魔化そうと、脣を破り、併しやめた。話さなくていい。霧子の言葉に甘えることにした。幽谷霧子の声。菫いろの眼。脣許に浮かぶ微笑み。少し開いた窓から事務所に流れる風。すべてがあまりにやさしいから。少しだけ、甘えることをルカは自分に許した。



 紅茶茶碗に注がれる夕陽いろの紅茶。いい香りだね……。だれに伝えるでもなく、或いは紅茶に言っているのか、幽谷霧子は楽しそうだった。それを眺めながら、アンティーカのセンターが焼いたクッキーに手を伸ばす。ざくざくとした食感と、大きなチョコレート・チップ。

「……うまい」

「ふふ……! 恋鐘ちゃんのお料理は、うまか〜、だから」

 愛をひそめた言葉にルカはそっと眼を伏せ、少しだけ脣を上向かせる。相変わらず胸は痛くて、気分は最悪で、だけど、無性に踊りたい気分だった。テーブル上の紅茶を溢さぬよう静かに立ち上がり、共有のホワイトボードでレッスン室の空きを確認する。

「レッスン、行くけど」

「うん……!」

 お茶会の後片付け。ルカが食器を洗い、霧子が拭く。キッチンの流し台にふたり並んでいる、そのことがどうにも不思議で、やさしかった。真白い清潔な布巾で皿を拭きながら、午后の花、あたたかに咲く、わらい、温もりが微笑む。

「ずっと…… 一緒に遊んでいようね……」

「…………え」

「ふふ……! 音楽と、ルカちゃんと、わたしで……」

 ずっとなんてない、だとか、アンティーカがあるだろう、だとか。そんなことを言いたかったのに、何も言えずルカは黙って皿を洗う。眼にはいったごみを取り除きたかったが、白い泡塗れの手ではできなくて、それがなんだか心地よくて、馬鹿みたいな自分にわらう。浮かべる控えめな笑顔、ぎゅっと瞑った眼に伴いながれた温い水が、午后の陽光を受け燦と光った。



空想屋・翻訳機


「美琴がなに考えてるかわからないときって、ない?」

「あはっ、ないよ! アタシたちは相性最高だもん」


 脳を過ぎるはおのれの愚か。ふたりでひとつだと信じ込んでいた日々。一心同体、そんな言葉に微笑みを浮かべるときさえあった。すべては泡沫。散りゆく花弁。あァ、こんなことになるなら。こんな結末なら。ふたり、互い、脳と脳とを繋ぎ合わせ、あなたの考えているものが見えたならよかった。何度だって後悔する。雨はやまない。雑音は消えない。焦燥は褪せない。笑い方などとうに忘れた。だがそれは問題ではなかった。何より、何よりルカの胸を苛むのは。

「……美琴の笑った顔、って、どんなだっけ…………」

 忘れるくらいなら、最初から知らなければよかった。


 不快な思考から脱するために眼を開ける。昨年のクリスマスで決着をつけた筈の気持ち。緋田美琴との関係性。しかしそれらは未だルカの魂の奥深くに根付いている。忘れられる、はずがないのだ。うつくしかった永遠の日々を。決着はついた。あとは私が進むだけ。そうは思っていても、まだ、胸が痛い。魂の半分が欠けたようで、その空白に茫漠の風が轟々と荒む。さむい、と。思った。さむくて、寒くて、さみしくて、どうしようもなかった。縋る相手がいないのは、自分で手を払いのけてきたから。

「暖房…………」

 事務所のソファから立ち上がり、空調のリモコンを探す。常に所定の位置に戻されるそれを見つけ出すのは容易で、ルカの、黒く塗られた爪が設定温度を上昇させた。

「…………」

 ふと気にかかったのは窓辺の植物たちだった。観葉植物は気温の変化に広く対応できると聞くが、どの程度の温度までなら問題ないのだろうか。そう考えてから、温くなる室温、おのれの甘さに自嘲めいた皮肉屋な笑みを広げる。これまでは気にもかけなかった。あることさえ意識していなかった。だが、幽谷霧子とユニットを組み、やさしく微笑みながら植物を水を遣る後ろ姿をルカは何度も見てきた。知って、しまったのだ。そうして、知ってしまった以上、なにかを手にした以上、知らなかったころにはもう戻れない。

「めんどくせェ……」

 手元の携帯端末で検索するのも億劫で、がしゃがしゃと髪を掻きながら再度立ち上がり、リモコンを手に取ると上昇させた温度を元の温度に戻す。むかむかと暴れまわる腹の内を黙らせ、これでいい。なんでもない表情を取り繕うと、無人のソファにどっかと座った。



「ただいま…… 幽谷霧子、戻りました……」

 どうやら仕事が終わったらしい。声に導かれ顔を上げると、眼前の霧子は制服を着ていた。どこまでも広がる深い青のジャケットに、同色のリボン。清潔を絵に描いたしろい襯衣。どれも、霧子によく馴染んでいる。似合っている、と思いながら、そういえばこいつは学生だった。と、当たり前の事実をルカは再認識していた。多忙なアンティーカの活動に、インターネット曰く成績優秀らしい学業。知ってはいたが、いざこうして制服姿をみると、これまでとは異なる実感があった。

「……ルカちゃん、なにか…… あった?」

 驚いた様子のルカを不思議に思ったのか、霧子がこてりと首を傾げる。それに伴い、さら、さら、長い、綺麗な髪がながれる。その幻想的な淡いいろに眼を遣りながら、別に、とルカは返した。脳内では警鐘、赤いサイレンが鳴っている。これ以上知るな。踏み込むな。相手は幽谷霧子だ。鈴木羽那や郁田はるきともまた違う、自分たちの絶対の居場所を持つ人間だ。そんな相手について知ったところで、無駄だ。そう思うのに、そう、わかっているのに、それでも手を伸ばしたくなるのはなぜだろう。


「……その、植物…… 室温は何度がいい」


 嗚呼! なんと愚か! また、手を伸ばしたくなっている。知りたいと思っている。脳と脳とを繋ぎ合わせ、それだけで相手のことがわかれば簡単だろう。だが現実はそうもいかない。思い込み、空想を描き、勝手に信じ、作り出した物語と現実に齟齬があれば狂おしく痛みを負う。だけどそれでも、そうとわかっているのに、まだ、知りたいと思ってしまう。また、知りたいと思ってしまう。

「えっと、室温は……」

 それでも、それでも。やさしい声。やさしい微笑み。ルカの尋ねにぱあっと嬉しげな表情をみせ、答える幽谷霧子を見ていると。知ることも悪くはないんじゃないかと少しだけ思えた。そう思う自分はやはり愚かだろうと遠い冷静の声を聞く。だがそれでも、けっして、悪い気分ではなかった。



Please,dear,dear


 世界がしろく光っていた。しろい光粒を纏った木々と、それを取り巻く装飾たち。一面にしろい光の連なった道を歩きながら、霧子は隣を歩く者のことを思うた。​───はたして、ルカの眼にもこのイルミネーションはうつくしく映っているだろうか。そんなところである。霧子には霧子の見える世界があり、ルカにはルカの世界がある。それを無理に重ね合わせる必要はないが、しかし、少しだけ重なっている部分があればとも慕う。

「…………。」

 綺麗だね、と言おうとして、やめる。既に交友を深めたアンティーカの面々や、プロデューサー、家族、友人たちと、ルカは明確に異なっている。どこまで言葉を伝えていいのか。くるりくるり、霧子は未だその境界を踏み惑っている。

「…………。」

 それを察してか、なにかを言おうとしたらしいルカは、しかしなにかを発する前に黙った。互い、光の中、距離を探っている。みえない線を照らそうとしている。


「…………なァ、」

 先に動いたのはルカだった。

「さっきの収録のトーク、もっと前に出れた」

「あ……」

「でも、オマエがいいなら、いい」

 謝ろうとする言葉を制するようにルカが言葉を続ける。謝らなくていい、謝るな。それがオマエのやさしさなんだろう。そんな言葉は、けっして言わない。ふたりを照らすしろい光が降る、降る。それは雪めいてふたつの輪郭をいろどる。

「……前に、ファンにも言ったけど」

 ひと息、ひと息、砕いた星の心を混ぜ、ルカが言葉をつむぐ。その息遣いに霧子ははっとする想いになって、手指にじとりと汗が滲むのを感じた。

「望めよ」

「え…………」

 いいよ。無理に言葉を繋がなくていい。そんな言葉が聞こえた気がした。少なくとも、霧子にはそう見える表情をルカは浮かべた。それがあまりにやさしく、あたたかいから。霧子はやわい脣をぎゅっと噤む。もう、なにも言うまいと思った。ルカの言葉が終わるまで。ルカの、伝えたい言葉を、こころで、全身で、受けとめたいと思ったのだ。そんな霧子をみて、微笑む、ルカはそうっと脣端をゆがめ、霧子の頬へと手を伸ばした。まるい頬に触れる、黒いネイルの爪は短い。その短さがなんだかやさしさのようだと思った。斑鳩ルカというひとに似ていると思った。

「望んで、……私に声を聞かせて。なにが欲しいか、言えよ。渡せるかは分からない。約束もしない」

 こく、こくと、言葉を出さず霧子は頷いた。何度も、何度も、頷く。この揺れる心が届くように、熱い気持ちが届くように。

「それでも…… 聞かせろ。幽谷霧子、オマエは、なにが欲しい?」

 片眉だけをいびつに下げ、脣は撓む、眼を細めた、痛みを堪えたような顔で、ルカがわらった。イルミネーションを背景にした姿はきら、きらとかがやきが鳴り、ひかる、音、周囲の騒めきは遠く、世界に霧子とルカ、ふたりだけがいた。いま、この瞬間、永遠、ふたりしか、いなかった。幾億の星々のめざめに呼応するように、霧子はそうっとまぶたを閉じる。音がまぶしくて、うれしくて、見ないことで世界を見ようとしたのだ。よく見える、と思った。見えない儘、だけど見えているから、霧子は、ルカのちいさな肩にそっと自身の肩を触れさせた。

「やさしい音…… ルカちゃんの音を、もっと…… 隣で、聞きたいな……」

「…………うん」

 それから、と。ルカが続きを促す。やさしいひと。もっと欲張って。生きるみたいに、息するみたいに、もっと。声を聞かせてよ。

「一緒に…… パンを作りたいな…… ほかほかの、あったかいパン……」

「うん……」

 いいよ。とは、けっしてルカは言わなかった。ただ、その相槌の音がやっぱり、あまりにやさしいから。霧子はそれだけで嬉しくなって、胸が、あたたかくなって。これから、ふたりでどんなパンを作れるだろうかと、ほかほかした空想を胸に膨らませた。すると心が、おいしい気持ちでいっぱいになって、ああ幸せとはこういうものだと、いっぱいのやさしい気持ちのなかで、そう思った。


「あの、ルカちゃん……!」

「なに?」

「イルミネーションが……綺麗だね……」

 わたしの見える世界が、あなたとも重なっていますように。勇気を振り絞った相方の言葉に、ルカがそっと微笑んだ。



おしまい

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